<12月の音>


「きっちりあわただしくなるものだねえ。」

感心したように丸岡がつぶやく。
しかしその間も、手は止まることなく分厚い、辞書ほどの書類を次々にさばいていく。

「マリちゃんは帰ってこないですしね。」

泉田は貝塚にダンボールを組み立てて渡しながら、相槌を打った。
貝塚はせっせと丸岡のさばいた書類をダンボールに詰めていく。

12月の始めに他課との合同捜査があった。
事件は解決し、捜査本部は一旦解散したが、阿部はまだ応援にとられたまま。
そして記録やら経緯やらを末までに提出せよとのお達しがあり、この繁忙だ。


「まあ昔はよく被疑者と一緒に年越し蕎麦を食ったもんだがな。」
「あたしも一度ミニパトで除夜の鐘を聞きましたぁ。」
「ほお、そりゃ一人前だ。」

丸岡が貝塚に温かな笑みを向ける。
泉田もつられて微笑みながら、心の中に浮かんだ情景を言葉にしてみた。

「しかしなんとなく、12月とパトカーのサイレン音はセットですね。」
「そうだなあ、月初から取り締まりもあってたくさん巷に出とるからなあ。」

泉田は次のダンボールを取るべく立ち上がり、窓の外を見下ろした。
日暮れ時、今日も道路はよく込み合っている。

「そろそろ警視が御戻りになられる時間ですね。長時間でしたからね〜ご機嫌悪そう。」

貝塚が手を止めて時計を見上げた。
涼子は終日会議に出ている。確かにそろそろ戻ってくる時刻だ。

「泉田クン、ここはもういいから出る支度をしておきたまえよ。」
「いや、しかし…。」

丸岡は片手をあげて拝むように、泉田に片目をつぶってみせた。

「今日は音楽会だったな。いつも押しつけて悪いがね、頼むよ。」
「…はい。」

泉田は苦笑いで、仕方なく頷いたのだった。





「あ〜、気分悪い。泉田クン、すぐ出るわよ!」
「はい。」

泉田は既にコートとカバンを持ち、機嫌の悪い女王さまを連れ出して職場の安全を図るべく待機していた。

涼子は自身の執務室から着替えを終えて出てくると、丸岡のそばに歩み寄った。

「まだかかりそう?」
「いや、もうあと2,3時間もあれば大丈夫ですよ。」

涼子は丸岡から視線をはずさず、しかし寸分の外れもなくくいっと後ろに立つ泉田のネクタイを掴み引っ張ると、
長い爪で泉田の頬にその長い指を刺した(「指した」ではない!)。

「これ、置いていこうか?」
「ぐっ…ぐぎぎぎ…。」

く、苦しい。
なんとか前に倒れこまず踏ん張っている泉田の苦悶の表情を見つつ、あわてて丸岡は両手をぶんぶん振った。

「ここは大丈夫です。どうぞ。」
「そう?じゃあお先に。」

解放された泉田ははぜいぜいと呼吸を整えながら、ネクタイをなおした。
…ところに、涼子がすかさず再度タイを引っ張った。

「じゃあ行くわよ。」
「ぐぎぎぎ…。」

「お疲れ様です。」
「失礼いたします。」

涼子に引っ張られて出ていく泉田の背中に、丸岡と貝塚は静かに手を合わせた。





ロビーは紳士・淑女であふれ返っている。
国内最高と言われるオーケストラの音楽会とあって、名士やマスコミも多い。

少しその辺りを歩いてくると言って涼子が席を立っている間、
泉田はなんとかプログラムで予習を試みたが、すでに眠気が半分襲ってきている。

曲が始まったら寝込むのは確実だ。

「いびきさえかかなきゃ許容の範囲だろう…。」
「何が?」
「えっ?」

泉田は戻ってきた涼子の為に、一旦立ち上がり奥に入ってもらうと再度腰かけた。

「いいわよ、寝ていても。」
「え?いいんですか?」
「キミにこの演奏の批評を聞こうだなんてことは期待していないからね。」

涼子が唇の端で笑う。

ええ、ええ。どうせクラッシックの良し悪しなんて、わかりませんよ。
泉田は半ばふてくされた気持ちで、正面を向いた。

開演のブザーが鳴り響いた。





案の定、演奏が始まるや否や、泉田はうとうとし始めた。
1曲目は何か短い前衛的な曲だったように思う。

そのあと、今日のメインである(はず)の交響曲の第一楽章が始まった。
5分ほどで泉田は完全に眠りに引きこまれた。

途中、何度か音が切れたり(おそらくは楽章の切れ目であろう)、自分が見る浅い夢に
ぴくりと膝が動いて慌てて少し体を動かしてみたりで、どれくらい時間がたったのだろう。





ドッ。

打楽器の音に泉田はびくっと目を覚ました。
激しい曲調へと変化している。

次いで朗々と耳にドイツ語が飛び込んできた。


…それが人の声だと、歌なのだとわかるまでにしばらくかかった。
あまりに美しく、直接体にしみこむような響きが声であるとは認識できなかったのだ。

しかし。そして。

その声に引きだされるように、さらに大きな合唱が体を包む。
声。声。声。

泉田にはその歌詞の意味はわからない。しかし確かに背筋が震えるのを感じた。


そして木管に続いて低音、コントラバス、チェロが奏で始める良く知ったメロディー。
世界中で愛される『交響曲第九番』第四楽章の主旋律だ。

――ああ、プログラムに書いてあったな。この歌詞はシラーの詩『歓喜に寄す』だと。

泉田は始まる前に読んだ文章を思い出しながら、音の洪水に身を任せた。

『一人の友人を得るという大きな賭けに成功した者よ、
一人の優しい妻を努めて得た者よ、その歓びの声を合わせよ。
時の流れで容赦なく分け隔たれたものは、再び一つとなる。
全ての人々は柔らかな翼のもとで兄弟になる。』


語りかける人類愛に満ちたこの音楽は、なんと心地よいのだろう。
どんどんとクライマックスへ向かっていく疾走感の中に、泉田はただ心を揺さぶられ、
音に包み込まれていたのだった。





鳴りやまないアンコールに、何度も何度もカーテンコールをして去っていく指揮者たちを、
最後まで拍手で見送りながら、泉田はまだ夢心地だった。

「そろそろ出ようか。だいぶすいてきたみたいよ。」

隣の涼子の声にふと我に返り、生返事をして立ち上がる。
興奮で足元がなんとなくおぼつかない。

クロークで荷物を受け取り、涼子にコートを着せかけると、泉田は無意識に先に立ってホールの扉を開けた。

そして一歩外に出た途端。

「うわっ、寒い。」

思わずコートの襟を合わせるほどの冷たい風。
頬を冷やすこの冬の寒さが、泉田を一気に正気に戻した。

そして、現実に戻った泉田の耳に、色々な音が飛び込んでくる。

クラクション、エンジン音。人々の興奮したざわめき、足音。
木々が強い風に揺れる音。遠くで響く電車の音。


「大丈夫?」


右腕にふわりと柔らかな腕が回される。
そして鈴玉が鳴るような笑いを含んだ声が、耳元に響く。

泉田は茫然と涼子を見つめた。
涼子はくすくすと笑いながら、泉田の鼻をつついた。

「第九、連れてきてあげてよかったでしょう?感謝してる?」
「はい…あの、警視。」
「なあに?」

「世界は、音に満ち溢れていますよね。」

抽象的な泉田の言葉に、涼子は笑いながら肩をすくめたが柔らかに答えた。

「そうね。」

泉田はまだ熱のさめやらぬ口調で、続けた。

「素晴らしい、ですよね。」
「そうね。」

涼子が愛し子を見るように、泉田を見つめる。
そんな涼子を泉田はふわりと抱きしめた。

「ちょっと!泉田クン!」
「楽しいですよね。食事をしましょう。もう少し話がしたい。」

駅へ向かう人の流れが二人を邪魔っけに避けていく。
涼子はなんとかその抱擁から逃れると、泉田の腕を引っ張って歩き始めた。

「小さいことなんて本当にどうでもよくなりますね。」
「そうね、あたしもいやな会議のことはすっかり忘れたわ。」

さて何を食べましょう、と楽しそうに話す泉田に、涼子は微笑み返した。





ベートベーンの交響曲はいつも聞いている景気の良い行進曲に次いで好きだ、と涼子は思っている。
哲学的で、情熱的で、それでいて悲観的。決して甘さだけを感じさせるのではないその闘志を聞いて、
涼子もまたエネルギーを養ってきた。


しかし今夜ふと、第四楽章で彼が身を乗り出した時に気付いたこと。
それは打楽器の響きが、彼の鼓動の音にとても似ているということだった。

世界で一番大好きな、命の音。





街は12月。腕をからめて歩き出す2人。
遠くどこかをパトカーのサイレン音が通り過ぎて行った。


(END)



*年末恒例、ベートベンの第九にまつわるお話でした。泉田クンが若干幼児化しています、ごめんなさい。
打楽器の音が鼓動の音に似ているのは、よく知られていることですが、ベートーベンのこの曲の打楽器は特に心臓の音に聞こえるのは私だけ?
泉田クンは爆睡していましたが、もちろん一楽章から三楽章までもとてもよい曲ですよ(笑)。
第九を初めて生聞くと、結構l興奮状態で泉田クン的ハイな状態になられる方が多いそうです。
合唱に声量があると、確かにまさに音に包まれる状態になりますからねえ。音楽の効用だなあ。
皆さまもどうぞよいお年を。