<North Wind>


「連絡が取れない…とは?」

執務室のデスクに座り肘をついたまま、固い表情で涼子が先を促す。
緊張した面持ちの丸岡が続ける。

「いつもの出勤時間になっても出てこないので、官舎と携帯に電話を入れましたが、応答はありません。
阿部巡査から同官舎にいる非番の同僚に頼んで管理人と一緒に部屋に入ってもらいましたが、
定時頃出勤した形跡のまま…。」

「本人はいなかった、と。」
「はい。」

涼子は組んだ両手の上から顎を離し、左手の人差し指でコツコツと机を叩く。
そしてちらりと壁にかけられたロココ調の時計を見上げた。

午前10時。

「定時に官舎を出たとしたら、約3時間。営利目的ならそろそろ何らかの連絡がありそうなものね。
目的が違うのか・・・怨恨?それとも何か事件に巻き込まれたか・・・か。」

「捜索届を出しますか?」

丸岡の提案に涼子は頷いた。

「頼むわ。ここまで時間がたっているのに通報がないということは、通り魔犯行ではなく、
拉致監禁か連れ去りでしょうからね。丸岡警部と阿部巡査も、至急官舎へ向って足取りを追って。」

「了解。」

丸岡は敬礼し、足早に部屋を出る。
閉まった扉の向こうから聞こえるざわめきが大きくなる。
その中に、貝塚巡査がかける手配依頼電話の上ずった声が交る。

涼子は携帯電話を取り出した。

発信履歴の一番上にある、見慣れた番号をコールしてみる。
流れてくる「電源が入っていないか電波の届かない・・・」というお決まりのメッセージ。

荒れたしぐさで携帯を切ると、小さなストラップがカチャリと音を立てる。

『琉球ガラスって言うんですか?キラキラ輝いてきれいですね。』

昨夜の会話。
このストラップにこわごわ触れて、光にかざしていた少年のような瞳。

涼子はぐっと顔を上げると、またデスクに肘をつき目を閉じた。


こうして泉田のいない朝は始まった。





『…どこだ、ここは。』

意識が戻った泉田は、少し体を動かしてみた。

『痛っ・・・。』

後ろ頭がずきっと痛む。
とっさに避けたとは言え、確か砂袋で殴られた。その場で首の骨が折れなかっただけ幸いだった。
吐き気がするわけでもないから、頭蓋骨にも異常がないと信じたい。眼の玉もきちんと動く。

…動くが…。

目が開かない。まぶたに何かが貼り付けられ、目隠しをされている。
そして手は前で一つに括られ、口も開かない。
おそらくガムテープで巻かれているのだろう、足も膝が曲がったまま動かない。



床についた背中から冷気が上がってくる。
泉田は、ゆっくりと起き上がった。そのまま前後に少し移動してみると、すぐに何か障害物に当たる。

『あせるな、まずは状況を確かめて。』

泉田は動きを止め、じっと耳を澄ました。
人の気配はしない。

『もっと何か感じられることがあるはずだ。』

使える感覚は聴覚・嗅覚・そして触覚。
泉田は全神経を研ぎ澄ませ、周囲を探ることに専念した。





「その道で拉致された可能性が高いということ?」

「はい。7時すぎごろ、官舎に近いコンビニの駐車場で2人の男が話をしているところに、
割り込むように背の高い男が加わったのを、店員が見ていました。
そのあと、2人を追うように奥の道に歩いて行ったそうです。」

「その背の高い男が泉田クンと仮定して、残りの2人は車で来たのかどうか判定出来る?」

「はい。防犯カメラがレジ後ろの窓の向こうを捉えていて、同時刻少し前に入ってきた車が、15分ほどたって出ています。
ガレージに入ってきた直後、運転手らしき20代と思われる長髪・ジャージの男が、
10代後半と思われるやや小太り・野球帽の少年と話をしながら、コンビニでタバコを買う映像もあり、
この2人が車を使っていたことは間違いないと考えられます。」

現場からさらに続く丸岡の声を、涼子はインターコムを通して聞いた。

「また駐車場を出る時、この車は20代と思われる長髪の男性が運転し、泉田警部補と思われる男が2人と
ともに歩いて行った道の方へ進んでいます。あ、ナンバーあります!映っています!」

「…決まり。車とその運転疑義者の容姿・年齢で都内近郊手配。あたしもすぐ出るからそこにいて。」
「了解。」


涼子はインターコムを切ると立ち上がり、かけてあったコートをパサリとはおる。
そして蹴破る勢いで執務室のドアを開けた。

「貝塚巡査、ついておいで、行くよ!」
「は、はいいいっ!!」

貝塚がきっと顔を上げ、涼子の元に駆けてくる。

ヒールの音も高らかにドラよけお涼がゆく。
あたかも凍る北風が吹き抜けるようなその鬼気迫る姿に、庁内の誰もが道を避けたのだった。





ガタガタと揺れる窓枠。
密閉されたサッシの窓ではない、少し薄いガラス、しかし大きな窓。

音が、そして転がりまわって確かめた物の形が、少しずつ見えない部屋のイメージを作る。

今、右隣にあるのは固定された物、かすかに匂う木の香りから何か家具であることが推測できた。
そして足の前に置かれているものは、頭を打った高さから考えてテーブル。

しかし、出口は見いだせない。泉田は全身を覆う疲労感にぐったりと横たわった。

体が冷えてきた。もう一部感覚がなくなってきている。
逆にふさがれた目はじんじんと熱くしびれるようだ。
どれくらい時間がたったのだろう。…そしてこのまま放置されたらどれくらいもつのだろう。

なんとか戒めを弛めようともがいていたおかげで、手も足ももう動かないほど疲れている。
口をふさがれて十分に酸素が吸えないせいか、頭がふらふらする。

しかし。

ガタッ、ガタタッと窓を揺らす風の音が、泉田を正気に返らせる。

もう捜索は始まっているはずだ。
参事官室の面々、そして刑事部の面々、世界に誇る日本警察の同僚たちが探してくれている。

自分があきらめるわけにはいかない。

泉田は床を転がり、さっき感じ損ねたことがないか、もう一度体を動かしはじめた。





立ち入り禁止の黄色いテープで囲まれた連れ去り現場で、
涼子はパトカーにもたれて腕を組み、無線を聞きながらまっすぐ前を見ている。

「手配の車、○○市郊外にて発見。無人です。」

茶褐色の髪を強い風がかき乱す。

「泉田警部補の携帯が発見されました!車の発見現場より1KM手前道路脇です。」
「車の持ち主、割り出し出来ました。」

涼子は体を起こすと、流れる無線に耳を傾けた。
車の持ち主は大麻所持及び売買で手配中の23歳の男性。

「なるほどね…ベタなところで、大麻の取引現場で職務質問をかけて、そのまま殴られたか、薬を嗅がされたか…。」

涼子は小さくつぶやくと、パトカーの窓から無線マイクを受け取り指示を出した。

「車発見現場周辺に泉田警部補が監禁されている可能性が高い。
連れ去り現場の捜査員は、鑑識を残してただちに車の発見現場に向かうように。
なお犯人は車を乗り捨てて逃走と考えられる。近隣の駅への重点配備。車の持ち主の特徴伝達。」

「了解。」

各方面から返る声に、涼子はマイクを戻しくるりと振り向いた。

「あたしたちも行くわよ、呂芳春。」
「は、はい。」

鑑識と一緒に、周囲の遺留物捜査を続けていた貝塚が立ち上がる。
 
「警視…。」

さっき本庁を出る時よりは少し柔らかくなった涼子の顔を見上げ、貝塚が涙ぐむ。

「こら、捜査中に泣くんじゃない。血痕もなかったでしょう?さあ、泉田クンを迎えに行くよ!あたしたちの車までダッシュ!」
「はいっ!」

涼子が駆ける。貝塚がそのあとを追う。何台ものパトカーが発進する。

急げ、急げ。





ぷつんと最後の粘着感が切れ、足がふわりと自由になった。

長い時間テーブルに足をこすりつけ続けた結果、太ももから下はしびれたようにだるいが、
ずっと曲げっぱなしの姿勢から解放された膝に、新しい血が流れ込むのが分かる。

泉田はぎこちなく数回足を曲げ伸ばしすると、ゆっくりと立ち上がった。

目が見えない状態で立ち上がるのは、かなり勇気を要する。

ぐらぐらと揺れる体を意志の力だけで支え、また気配を探る。
そして一歩踏み出したところで、何かが足に当たり、バランスを取る暇もなくものの見事に転倒した。

『痛ってぇ…。』

どこに倒れたのかわからない。
床に全身で転がるよりも、2本の足で立つことの方が不安定だと気づく。

それでも必ずこの部屋にも扉があるはずだ。そして外界とつながる窓があることは間違いない。

泉田は痛む体を起こし、ふらつく足でもう一度立ち上がった。





サイレンを鳴らし高速を駆け抜け、涼子は先頭を切ってさびれた山間道路の脇にある車の発見現場に到着した。

「ただ今被疑者と思しき2名を最寄JR○○駅で確保いたしました。」

所轄の警官が涼子に駆けより報告する。

涼子は軽く敬礼を返すと、そのまま道路を歩き出し、振り向きざまに指示を出した。

「御苦労さま。片側、通行止めにして。」

ヒールにミニスカート、極上の白のコート姿、
颯爽と髪を風になびかせた涼子を、所轄の警官たちは見とれるように呆然と見送った。

涼子に少し遅れて到着した捜査員たちが、ガードレールを超えて山に入り始める。
しかし涼子はカツカツと足を早め、道路を先へ先へと歩いて行く。

――あれだけの大柄な男性を運ぶには、距離に限界がある。

意識がない人間は重い。20M、50Mが限界だ。

――そうすると…。

この道路沿いのどこかではないのか、泉田を置いて、戻ってきてここに車を乗り捨てたのではないのか。

涼子は駆けだした。

――早く!

その涼子に全速力で走ってきたパトカーが追いつき、停まった。

「警視、乗って下さい!」

丸岡と阿部が窓から叫ぶ。
涼子と貝塚は後部座席に飛び乗った。





泉田はドアらしき場所へ向って何度目かの体当たりをした。

だが前の何度かと同じように、反動で泉田が床に投げ出されただけだった。
ふらつきながら、それでも泉田はすぐに立ち上がった。

『ちくしょう・・・だめか。』

風が窓を揺らす音が、床にいた時よりもずっと近くで聞こえる。
音を頼りに足元を探りながら歩き、そっと前に肩を出してみると、ワイシャツごしにひんやりとした硬質な感触が伝わってきた。

窓だ。

これを割るという選択肢がある。
だが割ったところで、外に出られるとは限らない。

感覚では大きいと思っているが、自分が抜けられるだけの大きさかどうかを正確に確かめるすべはないし、
何よりここが2階以上であった場合、飛び下りれば無傷ではすまない。
また割り方が悪ければ、どこかを切る可能性もある。


割れる音で誰かが気づいてくれるという希望も、五分五分くらいしか持てない。
さっきから相当大きな音を立てているのに誰も来ないところを見ると、よほど人里離れたところなのかもしれない。

『それでも…今できることはそれだけだ。』

泉田は頬にガラスを当てもう一度位置を確かめた。
その冷たさが心地よい。外を強い風の流れる音が体に伝わってくる。

思い切り戒められた腕を上げたその時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。

もう迷うことはない。

力いっぱい腕をガラスに叩きつける。窓ガラスが確かに割れる感触と音。

『あ!?うわあああ!』

しかし勢い余って、泉田の体はそのまま窓の外に投げ出された。





「あ、あれ!」

貝塚が前方に見えてきた、道路脇の野菜即売所の店舗跡を指さした。
シャッターが下りている。もう閉店して何年にもなるようなさびれ方だ。

「停めて!」

丸岡が急ブレーキを踏む。

涼子たちが車から飛び降りたのと、ガシャーンという音とともに、その店舗跡の窓ガラスが割れ、
中から何かが飛び出してきたのとは、ほぼ同時だった。

「泉田クン!!」
「泉田警部補!」





地面に叩きつけられ、体が今日何度めかの悲鳴を上げる。
すぐ着地したところから、どうやら1階の窓だったようだ。命拾いをした。

なつかしい声が聞こえる。そしてなじんだ香りが風に混じる。

「救急車、早く!車発見現場から約1KM先!」
「貝塚巡査、ナイフ!」
「は、はい。」

ザクッと音がして手の戒めが外れる。

「泉田警部補、もう大丈夫であります!」
「目と口は救急隊員が来るまでもう少し我慢して。ガムテープでふさがれているから、下手に外すとケガをするわ。」

助かった。
泉田は意識がふわりと遠くなるのを感じた。

気を失う直前に、強い風からかばうように、誰かが温かなもので体をくるんでそっと額に手をおいてくれた。
その手はとても冷たかったけれど、柔らかくて優しかったから、泉田は安心して体の力を抜いた。





同じ感触を額に感じて、泉田は意識を取り戻した。

「あ、動いちゃだめ。目はまだ開かないから。じっとしていて。」

すっと額から柔らかな手が離れていく。

「薬師寺警視…。」

名前を呼んだ途端に、唇にひりつくような痛みを覚え、泉田は顔をしかめた。

「痛いでしょう?長時間ガムテープで相当きつく押さえられていたから、皮膚が炎症を起こしているのよ。
瞼もやけどしたみたいにはれ上がっているから、あと2.3日は不自由だけれど、その包帯は巻いたままでね。」

ゆっくりと手を動かしてみる。目に手をやると、なるほど包帯が巻かれている。
その拍子に頬に触れた指が、貼られたガーゼに触れる。

「頬、ざっくり切ったのよ。あまり深くないから痕は残らないって先生は言ってたけど。
無茶するわよね、少しずれて頸動脈を切ったらどうするつもりだったの?」

「…申し訳ありません。」

腕だけで割るはずだったのに、思ったより窓枠が緩く、結果的に割れたガラスに体ごと突っ込んでいったことになる。
泉田は改めて身の幸運を感謝した。

「ケガしているところ悪いけど、減給よ。」
「・・・はい。」

涼子の厳しい声に泉田は頷いた。

「職務質問をかける前に、応援を呼ぶべきよね。2人を相手に路地に入るなんて不用心にすぎるわ。
その場で刺されていたかもしれないのよ。」
「はい、申し訳ありません。」

涼子の言うことはもっともだ。泉田も繰り返しそれは反省した。

「大麻の取引現場だったのね?結局大麻所持の現行犯で、2人ともさっき逮捕されたわよ。」
「一人は以前私が補導したことのある…当時はまだ少年でしたが組の準構成員で…でも、まじめになっていると思っていたのに…。」

だから思わず声をかけた、こっちで正直に話すという彼らを信じてついて行った。
そして相手の少年が持っていた護身用の砂袋で思い切り頭を殴られた。

「殺せなかったから、どうしていいかわからなくて、親がやっていた店に放置したそうよ。」
「え?」

「こんな重い体を抱えて車に乗せて運ぶだけでも大変だったでしょうね。
あたしだったらあんな足のつきやすい方法を選ばずに、後腐れなく始末して証拠を消すわ。」

確かにそうだ。泉田は涼子の声のする方に首を向けた。
同時にぴんと額が弾かれた。

「恩義を感じていたのかしらねえ、懲りないその犯罪者も。なんにせよ、こっちはいい迷惑だったわ。」
「…申し訳ありませんでした。」

泉田は見えない涼子に向ってもう一度詫びた。

「さ、もう寝なさい。今は夜。キミはここへ運ばれて数時間、血圧も脈拍も低下してかなり危なかったのよ。
体も打ち身だらけで、脱水症状で、軽い呼吸困難。よほど暴れたんでしょう?」

クスクスという聞き慣れた笑い声。
泉田は微笑んで、そして言った。

「ずっと強い風の音が聞こえていました。」
「今日はすごく北風が強かったからね。」

「まるで警視みたいだと思ったんです。」
「・・・え?」

涼子は虚をつかれて、不思議そうに泉田を見つめた。

「何も見えず動きのままならない中で、ずっと風の音に、負けるもんかと立ち向かう力を補給してもらいました。
この風の中に、警視がいらっしゃる、必ずみんなが来てくれる、そう信じられました。」

「…それはどうも。無事だったんだから、何に例えられてもまあ、いいわ、許してあげる。」

変わらぬ穏やかな声が、包帯の向こうのまなざしがやっと涼子を安堵させた。
涼子はナースコールのボタンに指を伸ばした。


『はい、ナースステーションです。』

「意識が戻りました。治療をお願いします。」

『はい、すぐ行きます。』


円滑な看護師の応答に、涼子は席を立った。

「じゃあゆっくり休むのよ。明日暇だったらまた来てあげる。」

泉田の額に、そして鼻の上に、柔らかな感触と甘い息が触れ、余韻を残す。

「おやすみ。」
「おやすみなさい。ありがとうございました。」

泉田が寝たまま軽く敬礼をした。
その拍子にどこかが痛んだのか顔をしかめたのを見て、涼子は肩をすくめ微笑んで部屋を出た。





病院の夜間通用口を出ると、冷たい風が容赦なく吹き付けてくる。

「寒っ。」

涼子はコートの襟を合せた。
とっさに泉田をくるんだ時に少し血で汚してしまったけれど、今日の記念品として医局から取り返してきたコートだ。

『まるで警視みたいだと思ったんです』

――…のんきな男よね、朝からどれだけ心配したと思っているの。


そう、北風なんて寒いだけだ。

隣に誰もいなければ。


涼子は病棟を振り返って、泉田の部屋を仰ぎ見た。

この容赦ない風すら味方にしてしまう男がいる、その場所を。



(END)



*長くなりまして大変申し訳ありません。
そんなにタイミングよく駆けつけてきて、発見されるわけがない!と。
いえいえ、これは日本の古き良き伝統で、刑事モノやミステリーモノは必ずこういうタイミングになっています。
だからこれでいいっ…ということでどうかご勘弁ください(泣)。

軽井沢では車にはねられたくらいだから、拉致でもいいかと思いましたが、思ったよりずっとヘヴィで泉田クン、お疲れさま、すまぬ。
お涼サマのキスをご褒美に書いてみたので許して下さい。

1月3日拍手のコメントで1月23日の新刊情報を下さった方、ありがとうございます〜生きていく元気が湧きました!
読んで、またお涼サマのパワーを補充します。楽しみですね。