<雨の日の過ごし方>
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台風は思ったより近づかずに東の海に行ってしまったが、
その置き土産である湿った空気と気圧の谷がぶつかってしまったとかで、
都心は昼過ぎから断続的に強い雨が降っていた。
・・・そして夜も更けたが、まだ雨は降り続いている。
私はやっと空いたスクリーンの前に座って、手元のプレイヤーに選びに選んだDVDをセットした。
夕食後、上司につきあって、さっきまで『怪奇・十二日の木曜日』DVD6話〜8話を視聴していた私には、
ささやかな自由があってもいいはずだ(ちなみに全編は既に3回通して見たことがある・・・)。
上司は、あんなに広大な分野で特技を持っているのに、なぜか嗜好は極端に偏っている。
半分寝ぼけていた私の頬をつねりながら最後まで見たあと、
さらにこの間私が偶然に口の端に乗せてしまった7話の台詞を何回かリピートした挙句、
ふいに不機嫌になり「お風呂に入ってくる」とのたまわれた。
いかな私が野暮であっても、ここまでくるとなんとなく言いたいことはわかる…
が、また切り返しはぐらかされるのが嫌なのか、それとも先に進むことが怖いのか、
色々思いまどう中で、自分の位置を測れないやはり野暮な私は、今回もうまく反応できなかった。
当然、女王さまのご機嫌を損ねる。
ところで、部下は上司の部屋で、上司に「お風呂に入ってくる」と宣言された場合、どういう行動を取るべきか。
私の場合、既にこういう状況下に立たされたことが一再ではないので、素直に前例に従った。
即ち休憩を取ってよしと宣言されたと見なし、好きなことをして待つという行動である、
上司は必要があれば私を容赦なくバスルームまで呼びつけるであろうし、
帰っていい時には帰れと指示がある。逆に何か指示がないかぎり動かない方が無難なのだ。
セットしたDVDがカチカチと読み取り音を立てる。
この部屋には嗜好が偏った上司のDVDだけでなく、古今東西の名画、
それも1930年台から1960年代のコレクションが充実している。
どれも私が学生時代から何度も見ているものか、見たいと思っていた作品ばかりだ。
職務上の重い重い制約がなければ、一晩中でもここに座っていたい。
心沸き立つ音楽とともに、スクリーンにタイトルが浮かび上がる。
『For Whom the Bell Tolls(誰がために鐘は鳴る)』
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ポチャン。
水滴が天井から水面に落ちる。
やだ、ちょっと湿気過剰。
バスルームの天井はもう少し高い方がいいのよね。
はあ、何度見ても「怪奇・十二日の木曜日」はおもしろい。
途中で半分寝かけていた、無礼な部下のほっぺをつねっている時間も惜しかったくらいね。
『上司の命令は絶対ですので従いますが、知りませんよ、私も男ですから。』
『罪に問われようと制止することができない。人間とは愚かな生き物です。』
・・・アイツわかったのかなあ。
あの台詞、あたしがどんな気持ちで聞いたか。
言われた時には、一瞬覚悟してくれたのかと思ったんだけどなあ。
また気まぐれやわがままにつきあわされるのはごめんだと思ったんだろうなあ。
それとも大人の牽制ってヤツ?ふんっ。
あたしはぽちゃりと頭までお湯につかった。
ほんわりと頬に温かいお湯の流れる感触。ふわふわとした浮遊感。
ぷはは。
また頭を出して天井を見上げる。
そりゃあたしの反応も悪かったと思うの。
もっと真剣に何か言えればよかったのかもしれない。
ほんとに鈍いんだから。
そういえばさっきあたしがお風呂に入るって言った時にも、あからさまにほっとした顔をしていたな、許せん。
よっぽど入り口に立たせてやろうかと思ったけど・・・やめた。
もうアイツの目は、テーブルの横のラックにあるDVDに移っていたから。
それはもともとこの部屋にあったものじゃないのよ。
誰かさんの為に揃えたものなんだからね。
推理物と探偵物は特に充実させているこの念の入れ方、ああ、あたしってなんて健気なんでしょう。
・・・のぼせてきちゃった。出よう。
どうせアイツはまだしばらくスクリーンの前から離れないだろうから、ゆっくりメールでもチェックしよう。
ガウンを羽織って、パウダースペースの小窓を開けたら、外はまだひどい雨だった。
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バスルームのドアが開く音で、熱中していたDVDから現実世界に引き戻される。
バスローブをはおった上司の姿に私は立ち上がったが、上司はひらひらと手を振ると、
そのまま自分の部屋に入ってしまった。
これを自由時間の継続と受け取ってもよいだろうか。
『Maria!』
スクリーンの中のゲイリー・クーパーが恋人を呼ぶ声に、私は迷うことなくDVDに戻る道を選んだ。
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メールは全部で30通。
頼んでいた情報はだいたい入ってきた。
ジャッキーはボジョレーヌーボーの情報も送ってくれている、おいしいワインは最良の友よね。
ありがと、ジャッキー。
さて、真夜中近くになったことだし、そろそろ部下の様子を見に行きますか。
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スクリーンに銃声が響きわたった。
泉田は微動だにせずラストシーンを見詰めた。
やがてエンドロールが流れ始める。
主人公の最後のセリフの余韻にひたりきってソファーにもたれていた泉田の頬に、
後ろから冷たいワイングラスがあてられた。
「あ、ありがとうございます。」
涼子はソファーの背もたれに肘をついて、自分もワイングラスに口をつけると、一緒にエンドロールを眺めた。
「申し訳ありません、すっかり熱中してしまいました。こんな映画だったんですね。」
「イングリット・バーグマンはお好み?」
「ええ。警視はゲイリー・クーパーはお好みですか?」
「・・・まあまあね。でもこの映画は嫌い、暑苦しいしラストが後味悪い。」
「そうですか?私は好きです。最後、誰の為なら戦えるか・・・って重い問いかけですけれど。」
涼子はソファーの背もたれをひらりと飛び越えると、やや不満げな顔の泉田の隣に着地した。
右手のグラスのワインは少し波立っているだけで、一滴もこぼれていない。お見事。
「映画としてはともかく、俳優に話題を絞るなら、これは彼のベストじゃない気がするわ、
個人的には『Love in the afternoon(昼下がりの情事)』の方が好きね。」
「お相手はオードリー・ヘプバーンですね。おもしろいですか?さっき迷ったんですよ、どっちを見ようかって。」
涼子はDVDラックの中をごそごそとかき回して、話題のものを取り出した。
「じゃあ次はこっち見ようよ。これなら一緒に見てもいい。」
DVDを握りしめて笑う涼子にあいまいに微笑み返すと、泉田は腕時計を見た。
真夜中を少し過ぎている。
「警視、せっかくですが、そろそろ終電です。またの機会に見せて下さい。」
「・・・泊っていけばいいじゃない。明日は休みなんだし。」
「前回は捜査事項でしたからお言葉に従いましたが、今回はプライベートですから。」
その言葉を聞くなり、涼子はワイングラスのワインを全部あおった。
そう来るだろうと思った。
でもあれだけ繰り返し思い出し、反省したのだ。
今度は負けない。何があっても今夜は帰してやらない。
「・・・プライベート以外の事情があればいいのね。」
「は?」
泉田は状況がのみこめず、涼子の妙な迫力に戸惑っている。
「わかったわよ、電車を止めてやろうじゃないの。」
「え?ちょ、ちょっと、警視!」
「離しなさいよ、この国じゃテロだって言えば電車も飛行機もぜ〜んぶ速攻止まるんだから!」
「それは虚偽通報です!犯罪ですよ!」
「うるさいっ、じゃああたしが爆弾をしかけて止めてやる!」
「それはもっと重罪です!」
とても治法国家の警察官だとは思えない会話を繰り返しつつ、
涼子は止める泉田の腕を振り切って、テーブルの上の携帯を取ろうと立ち上がったその時。
DVDが再生を終え、スクリーンがニュースを映し出した。
『え〜こちら都内の地下鉄駅入口前です。このように集中豪雨による水の流れ込みで、階段が既に滝のようです。
営○地下鉄は既に1時間前から運転を取りやめ、駅構内への立ち入りを制限しており、帰宅途上の足に大きな影響が…。』
叩きつけるような雨の中で、若手アナウンサーが必死にしゃべっている。
そのアナウンサーの上に光る駅名は『白金高輪』。
「この下じゃない!?」
泉田と涼子は同時に窓に駆け寄り、カーテンを開けた。
水滴で何も見えない。
涼子はさらに窓を開けた。
耳をつんざくような雷鳴と雨の音。まさに土砂降りだ。
「・・・まいりました。」
泉田は肩をすくめながら、雨風から涼子をかばう形で窓を閉めた。
「今夜はお世話になるよりほか、ないようです。」
「よろしい。御世話してあげましょう。でも…。」
涼子は泉田のワイシャツをきゅっとつかんだ。
「部屋の用意はしない、マリとリューは起こさないわよ。今日はここで一緒にDVDを見るんだからね。」
「はいはい。」
涼子が泉田の胸に飛びこむ。
泉田がその体をふわりと抱きしめる。
ふと思いついたように、涼子が顔を上げてつぶやいた。
それはさっきの映画の名台詞。
「Always I've wondered where the noses would go・・・ (キスの時、鼻は邪魔にならないのかしら?).」
「・・・試してみる?」
ゲイリー・クーパーよりずっとずっといい声だ。
そう思いながら涼子はゆっくりと瞳を閉じた。
雨はまだまだ降り続ける気配。
どうぞ心ゆくまで名画の世界にひたってください、おふたりさん。
(END)
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*雨の足止めネタは2回目ですね。雪を入れると3回目?(笑)
バリエーションのないことで申し訳ありません。
そして映画そのものを知らない方と、コミックスの最新刊をまだお読みでない方にはわかりにくい内容だったかも
しれません。ごめんなさい。
「キスの時、鼻は邪魔にならないのかしら?.」「・・・試してみる?」
という映画の中の会話は、同じく映画カサブランカの「君の瞳に乾杯」と同じくらいによく使われます。