<安全装置>
泉田は、本庁で行われる研究会に出席していた。
なぜか刑事部長直々に、泉田が出席せよと指名されてきた会議だ。
・・・1時間座っていて、その理由がわかった気がした。
例えば、今発表されている講義の内容は「警職法7条」。
法律関係の偉い先生だろうか。
延々とかれこれ20分以上しゃべっている内容は、一言で言うと『警察官による武器使用の要件』。
警察官はどのような時に、武器を使っていいかという話である。
なるほど。
刑事部長は泉田よりも、本当は泉田の上司にこの研究会を聞かせたかったに違いない。
泉田の上司、
それは悪人には情け容赦なく接することを美学とする正義(?)の女神、人呼んでドラよけお涼。
きっと刑事部長は泉田に、研究会に出席することに加えて、
10回に6回くらいは犯人に代わって暴行を受けてくれと言いかねないほど、精神的にも追い詰められているのだろう。
もちろん丁重にお断りするが。
しかし泉田も、だんだんとこの講義を聞くのが苦痛になってきた。
この先生はおそらく、格闘の経験もなければ、刃物を持った相手とわたりあったこともあるまい。
しかも現場と、この法律を守ることの難しさを共有しようとも思っていまい。
所詮はたんなる「解説」と「諸注意」の域だ。
だが小市民である泉田はそう思っても、最後までなんとかその研究会を中座せず、
かつ眠らずに耐えたのだった。
「ただ今戻りました。」
「お疲れさま。何か印象に残ったことはあった?」
帰り支度をしかけていた涼子は、手を止めて泉田の報告を促した。
「・・・発砲はむやみやたらと行ってはならないという注意が、印象に残りました。」
美しい涼子の眉がぴくりと跳ね上がる。
そして妖艶な笑顔を浮かべて、デスクの前に出てくると、ぐいっと泉田のネクタイを引いた。
「キミ、あたしの発砲がむやみやたらだと言いたいワケ?」
「決してそのようなことは申し上げておりません・・・身に覚えでも?」
しらばっくれてみせてはいるが、どこか落ち込んだ様子の泉田を怪訝そうに睨みつけると、
涼子はフンと手を離し、背を向けながら言った。
「午後いっぱいさぼらせたら、ずいぶん元気を余らせて帰ってきたものね。まあちょうどいいわ。
続きは外で聞くから、助手A、早くコートを取っていらっしゃい。閉館時間までに図書館に滑り込むわよ。」
閉館ぎりぎりの図書館に飛び込むと、涼子は何やら法令関係の本をひっぱりだし、複写の依頼をした。
何百、何千とある中からてきぱきと本を選ぶその見事さは相変わらずで、頭の構造が違うとしか泉田には思えない。
涼子はそれらのコピーを封筒に入れると、自分のマンションへと車を走らせた。
「たまにはおうちで食事をしましょう。今晩はリュシー特製のイタリアンよ。」
もちろん泉田に拒否権はない。
しかしメイド2人の料理はとてもおいしく、独り身の栄養補給に役立っているのも事実なので素直に頷く。
「それは楽しみです。」
今夜はパスタか。
カナダでのスパゲッティ恐怖体験を払拭するいい機会だ。
オリーブオイルにはまだ胸焼けがするが。
泉田は窓を流れる景色を見ながら、そんな他愛のないことを考えて気分を何とか浮上させようとしていた。
しかし、この夜の食事はそう甘くはなかったのだ。
「前菜は厚切りハムにピクルスを添えて。あら、ズッキーニもついてる。おいしそうね、泉田クン。」
「・・・はい。」
どうしてフォークもナイフも取り上げられて、
目の前でまるで優雅な指揮のようにくるくると回されているのだろう。
涼子はテーブルに肘をつき、フォークをチャリンと落とすと、
片手にワイン・・・サンジョベーゼ・ディ・ロマーニアの美しい赤を持ち、
そして反対の手には手入れの行き届いたナイフを軽く振り、微笑んで泉田に尋ねる。
「ではまず警職法第7条について。武器の使用の要件を3点。」
「は?」
「昼いっぱいかけて、勉強してきたんでしょ。早く言わないとソース乾いてがまずくなるわ。」
「あ、あの・・・。」
「早く!」
泉田は必死に今日の講義を反芻した。初めて習ったことでもないので、なんとか3点、説明することが出来た。
「よく出来たじゃないの。でも時間がかかりすぎ。前菜のうちはいいけれど、次からは大変よ?」
泉田にナイフとフォークを渡すと、涼子はそれまでの行儀の悪さを忘れたかのように、
見事なマナーと気持ちのいい食欲で極上のハムを口に運ぶ。
「じゃあ次は、実際に合法と認められる事例を想定して説明してもらうから。
食べながら考えておかないと、パスタがのびちゃうわよ。」
・・・いじめだ。間違いなく嫌がらせだ。
泉田だって、あんな講義を聴かされて落ち込んでいるのに、さらに追い討ちをかけるなんて。
しかしもともと泉田があんな研究会に行くことに対して、涼子がごきげんだったわけがない。
そこへ余計なことを言った自分の軽口を、泉田は悔やんだ。
が、もう遅い。
「あんな余計なことさえ言わなければ、もっとゆっくりさせてあげようと思っていたのよ。
でもこんなおいしい食事をしながら、勉強したことのおさらいも出来て、本望でしょ?泉田クン。ホホホホホホ。」
泉田は涼子の話には惑わされず、必死で次の事例を考える。
そして泉田は、パスタが運ばれてくる前に何とか一つ事例を考え、必死で説明したのだった。
「間違ってる。」
「は?」
「間違っているわ、キミが今想定した事例、判例では違法よ。これを読みなさい。」
新鮮な魚にプチトマトをあしらったパスタ、そしてメインのカツレツが出てくる前に難題をくぐりぬけ、
何とか温かいごちそうを口にすることが出来た泉田は、最後、小さなドルチェとコーヒーを前に、涼子に再びフォークを取り上げられた。
渡されたのは、さっき涼子が図書館でコピーしていた資料の一部。
そこには過去の警官による武器使用に関する判例が、ずらりと並んでいた。
「多分キミが感じていた午後の憂鬱の実例が、ずらりと並んでいるわ。
警官としてはあまり気持ちのいい話じゃない。例えば、これね。」
涼子は資料を指差しながら、泉田の隣に移ろうと立ち上がった。
2人のメイドがあわてて席を整えようとする。
しかし、彼女たちの親愛なる女主人が優雅な仕草でそれを押しとどめた。
「マリー、リュシー、もう休んでいいわ。後はこっちでやっておくから。」
「メルシー、おいしかったよ。」
泉田もその涼子のフランス語の意味するところを酌んで、軽く手を振る。
2人のメイドは微笑んでちょこんと一礼すると、ダイニングルームを出て行った。
泉田は2人を見送ると、渡された資料を食い入るように見た。
確かにあまり気持ちのいいものではない。
その中の一つは、涼子が言うとおりさっき泉田が考えた事例に似ていて、
しかもどう見ても、武器使用が適切だったとしか思えない事例だったが、判例は『違法』。
「これ・・・撃たなければ、きっと警官の方が殺されていましたよ。」
「それでも判決は違法でしょ。その裁判は幸い高裁で逆転判決が出たけれど、こっちは違法のまま罰金支払い。
左右に避ける余地がまだ残っていたという理由と、犯人を背中から撃っているというのが、裁判官の最終判断の要だったの。」
逮捕の現場では当然、犯人は逃走しようと、文字通り死に物狂いになる。
その相手に1分近くにわたって殴られたり蹴られたりを繰り返された後、左右にいくら避ける余地があっても、
警官は動けるものなのだろうか。
そして避けるということは、犯人を取り逃がすということにつながりかねない。
使命感にかられた警官に、そんな選択が出来るだろうか。
警官による武器の使用条件の中には、
「犯人の逮捕若しくは逃走の防止のため、自己若しくは他人に対する防護のため又は公務執行に対する抵抗の抑止のため」
という目的がきちんと明記されている。
しかし加えて、この使用判断が必要かつ合理的であったことを説明できなければならないという他の条件があり、
これが常に裁判では問題になる。
まだ避けられた、仲間の警官を呼ぶべきだった、犯人にもっと警告を発すべきだった・・・
後から指摘されればそのとおりかもしれない。
しかし、人間同士が死闘を繰り広げているといういわば極限に近い状態の中で、
それらをどこまで冷静かつ合理的に判断できるものなのだろうか。
安全装置を外す時の、あの表現のしようがない緊張感。
それはおそらく経験したものでなければわかるまい。
人命は尊い、人権は擁護されるべきものだ。泉田にもそれは異論はない。
しかし。
「拳銃を出せば犯人はひるむ、その時一瞬背中を向ける時だってある。
警官だって、どんなに訓練していたって殴られて目がかすめば手元が狂い、反応が遅くなることもあるでしょう。
でもそれを法は決して許さない。そういうことよ。」
泉田は涼子の説明に頷き、小さく切ったドルチェを口に含んだ。
それは甘く舌の上でとろけていく。
その甘さがなぜか受け入れられなくて、泉田はフォークを置いた。
涼子はそんな泉田をちらりと横目で見ると、自分の分のドルチェを切り分けて、泉田の口へと運んだ。
「はい、あーん。」
戸惑った泉田が仕方なく口を開くと、涼子は容赦なくフォークを押し込んだ。
「きちんと食べなさい。落ち込んでも食べなくていい理由にはならないの。」
泉田はもぐもぐと仕方なく口を動かし、今度は素直に飲み込んだ。
ドルチェとコーヒーをたいらげると、涼子は隣のリビングのソファに移った。
泉田もそれに従う。
涼子の隣で、泉田は立ったまま窓から外を眺めてつぶやいた。
「研究会からずっと抱えていた憂鬱の正体は、わかりました。これらの基準を理解しない同僚が、
法律を遵守出来ず不肖の発砲事項が多発していることには、憤りを感じます。しかし・・・。」
「固いっ!泉田クンってば本当に頭、固い。」
涼子が泉田の言葉をさえぎって、弾みをつけてソファから立ち上がった。
「だからね、結局は自分の好きなように、悪には鉄槌を加えるべきだって言うことなのよ。
撃てる時には思い切り撃つ、その為のチャンスは逃さない。それこそ警察官の醍醐味じゃない!」
「警視!」
泉田も負けてはいない。ぐっと涼子をにらむ。
「もうぉぉぉ!うっとおしい顔をしないの!キミはちょっとくらい無茶をした方がいいって言ってるの!」
「不謹慎ですよ、警視。それは公務員として!・・・」
突然、涼子の唇が泉田の唇をふさいだ。
想定外の出来事に完全に固まった状態で、泉田はただ涼子にされるがままだ。
「・・・あんまり固いことばっかり考えていると、そのうち安全装置が錆びついて動かなくなるわよ。」
泉田の首に腕を回して、フフンと涼子が鼻を鳴らす。
「いざと言う時に動けない警官なんて、法律を守る以前に役に立たないと思うけど?」
詭弁だ。
涼子はただ傍若無人にやりたいからやっているだけ。
・・・しかしそれも、法律を極め、今は過酷な現場で動く涼子ならではの悟りかもしれない。
そんなことを少しだけ思ってしまった隙に、涼子が極上の甘い声でささやく。
「落ち込むのはもうやめて。大丈夫・・・今は泉田クンが思ったとおりにすればいいのよ。
憂鬱な気分なんか吹き飛ばしちゃいなさい。」
カチン。
頭の中で確かに何かが外れた。
泉田は涼子を強く抱きしめると、貪る様に唇を重ねた。
止められなくなりそうな予感に身を任せるのは、なかなかに気持ちがいい――。
耳元で麗しき正義の女神(?)が笑う気配がした。
――まったく手間のかかる男だこと。
涼子は、泉田の寝顔を見ながらつぶやいた。
現場に出れば迷いも逃げもなく、誰よりも果敢に行動するくせに、
鈍感かと思えばなかなかのヒューマニストで、平素は一つのことにのめりこんでは自分を苛み探求し・・・一人で落ち込む。
この男のわるい癖だ。
涼子が見ている限り、泉田の悩みや落ち込みは全く不要のものだ。
泉田の武器使用の判断には一度の誤りもない。
こっちの使用判断に難癖をつけてくるのはいただけないが、まあ仕方ない。
――キミはあたしの安全装置だもんね。
涼子は泉田の頬をきゅっとつつくと、幸せそうに目を閉じた。
その隣で泉田は、何かにうなされたようにきゅっと眉をしかめた。
(END)
*法解釈のところ、長くてうっとおしくて申し訳ありません。改善できなかった・・・力不足ご容赦。
お涼サマのあの無茶は、一応非常に高い知性に支えられていると思っているのですが・・・え?紙一重?(笑)
泉田クンは時にいろんなことを深刻に受け止めすぎるような気がします。しかも今回はちょっと子供化?
やっぱりこの2人、バランスの取れたコンビなのでしょう。