<Bitter or Sweet>


『今度の木曜日の夜は空けておいてくれる?』

あらまった口調に違和感を感じながらも、泉田はいつもどおり上司に『はい』と答え、席に戻った。
昼休みの参事官室。誰もいないがらんとした部屋。

デスクにあるカレンダーを見る。

常日頃周囲からさんざん、鈍い鈍いと言われている泉田でもわかる。

来週の木曜日は2月14日。
バレンタインデー。

何となく落ち着かない気分になる。
嬉しいかと言われると・・・わからない。じゃあ嫌なのかと言われると・・・。

泉田は心を静めるためにしばし目を閉じた。

多分、まだ結論を出すのが怖いだけだ。
大人特有の慎重さと言えば聞こえはいいが、裏を返せば狡猾なだけ。

それとも考えすぎなのだろうか。

泉田は首を左右に軽く振ると、ため息をついた。



そんな泉田の後ろ姿を、参事官室の扉から涼子は気配を消して見つめていた。

背中から見てなお、極めてわかりやすいその迷いっぷり。

そんなに重く考えないで。

大丈夫、あたしも大人なんだから。
ちゃんと気まずくならないように軽く終わらせることだって出来る。

でも少しは真剣に考えて。

気持ちがゆらゆらと揺れ動く。

涼子はそんな自分に気づき、忌々しそうに舌打ちすると扉を思い切り蹴り開けた。

「ランチに行くわよ!つきあいなさい、侍従長!!」
「あ、はいっ!」

泉田は我に帰ると、あわてて席を立った。





当日、『結局、業務呼び出しでお流れ』というオチもつかず、涼子は定時に参事官室を出て行った。
待ち合わせは1時間後、少し離れた地下鉄駅出口。

泉田は座ったまま、同僚たちが帰っていくのを見送っていた。

「帰らんのかね?」

丸岡が立ち上がりながら泉田に声をかけた。

「あ、はい。この書類を片付けたら。どうぞお先に。」

丸岡はやれやれといった具合にため息をつき、泉田の背中にまわって軽く肩を叩いてやった。

「・・・女を待たすのはやめておいた方がいい、あとが怖いぞ〜。」

そのいつもと変わらぬ口調に、泉田は苦笑いを浮かべた。

「ご存知なんですか?」
「女王様が定時退社、いつものお供はなにやらため息まじりとくれば想像はつくってもんだ。
これでも元捜査課だぞ、なめるなよ。」

丸岡は、はははと笑って言った。

「お前さんが今のままでいいと思えば、何も変えなくてもいい。そういうことだ。」

「それもずるいような気がして・・・。」

苦虫を噛み潰したような顔で泉田がつぶやく。
丸岡はそれも一笑に付した。

「ずるくて結構。あせるとろくなことはないぞ。ただ忠告だけはしておこうか。
そうだな、頭の中でどうしても何かしなきゃいけないと声が聞こえた時は素直にそれに従うことだ。
ま、しっかりお守りを頼むよ。」

丸岡は温かい笑顔で、女性陣からもらった赤い小さな紙袋を抱えた。

「3月14日は、阿部巡査にまとめてお返しを買ってもらうように頼んだよ。
やれやれ、チョコをもらうのは嬉しいが、つまみにもならないし色々大変だ。」

手を振って帰っていく丸岡に、泉田は立ち上がって一礼した。

何かしなきゃいけないと思ったら・・・か。
少し軽くなった心で、時計を見た。17時30分。
そろそろ出なければ間に合わない。

泉田はデスクの上をバタバタと片付け始めた。



――嘘だろう・・・――

泉田はあせっていた。
犯人追跡で鍛えた足も、この帰宅ラッシュ時のホームではなかなか威力を発揮できない。

乗り込んだ地下鉄は桜田門駅を発車した途端、最寄駅で線路に人が落ちたとかで止まってしまった。
多くの人が使っているせいか、もともと電波状況が悪いのか携帯で連絡も取れない。
待ち合わせ場所までほんの10分の距離が、たっぷり15分は閉じ込められた。

そしてやっと目的地についた今、既にもう待ち合わせ時間を1分過ぎている。

泉田は時計を見ながら、改札を出てようやくバラけてきた人の波をかきわけ、
地上への階段を飛ぶように駆け上がった。


冷たい空気が息切れした頬に当たる。
見回すまでもなく、待ち合わせの相手は階段を上がったところに立っていた。

「申し訳ありません!」

涼子はちらりと泉田を見ると、そのまま歩き始めた。
泉田は息を整えながら、その後を追う。

すたすたとしばらく歩いた涼子が、ふいに足を止めた。

「・・・警視?」

止まったまま動かない涼子に、泉田はおそるおそる呼びかける。

涼子が深呼吸をするように、大きく息を吐いた。
その肩が小さく震えている。


――心配・・・だったのか?――

そう気づいた瞬間に、かっと体が熱くなったことに泉田は戸惑った。

思われているという実感と戸惑い。

それは今日の待ち合わせを告げられた時よりももっと大きな波で、
平静さを失わせる。

丸岡が気づいていたくらいだ。側にいる涼子が泉田の迷いに気づかないはずがない。
待っている間も、涼子なりに色々なことに考えを巡らせていたはずだ。
その中には、来ないかもしれないという最悪の選択肢も当然入っていたはず。

1分間、いやそれより長くかもしれない、涼子はここでどんな気持ちで待っていたのか。
泉田はそう考えると、それに気づけなかった自分にどうしようもない苛立ちを覚えた。

涼子がようやく、また歩き出そうと顔を上げた。

「あの、警視。」

泉田は素早く涼子の前に回りこんだ。
涼子が子供のように、顔をそむける。

何とかしなければいけないと、頭の中で何かが告げる。
そむけた視線を追うように、泉田は真摯に言葉をつないだ。

「連絡が取れなくてご心配をおかけしました。
地下鉄の人身事故で、車内に閉じ込められていたんです。お待たせして申し訳ありませんでした。」

涼子はまだ顔をそむけたままだ。
泉田は根気強く、涼子の位置まで目線を落として続ける。

「あの、少しどこかで休みませんか?お待たせしたので体が冷えたでしょう。
お茶をおごらせてください。もちろん、あなたの予約している店に間に合えば・・・ですが。」

涼子がようやくぽつりとつぶやいた。

「・・・予約なんかしてない。」

泉田はなんとか涼子の視線を捕らえようと、顔を背けた方の涼子の腕にそっと手を置いた。

「じゃあ、お茶を飲みながら食べたいものを選びましょう。」

そう言い終わるか終わらないかのうちに。
涼子は泉田の胸に飛び込み、背伸びをしてその首に腕をまわした。

「警視!?」

涼子は答えない。その代わりに腕にぎゅっと力が込められた。
泉田は少し戸惑いながら、上質の白いコートに包まれたその体をそっと抱きしめた。

涼子の香りにくすぐられて、甘い気分に満たされてゆく。





しばしの間。
そして泉田を現実に引き戻したのは、耳元で冷静に放たれた声だった。

「ちっ、人通りが少ないなあ。これじゃイジメにもならない。」


泉田は瞬時に現実に引き戻され、体を離そうとすると涼子の腕が一層強く首に巻きついた。

「だめよ。誰か知り合いが通るまで離れちゃ。ここならお偉方も通るかもね。」

甘い恋人たちの逢瀬、変わって悪魔の抱擁から逃れようとする神の使徒の図。

「離してください、警視。」
「いやよ、絶対にいや!あたしを待たせておいて罰も受けないつもり!?」
「いや、それとこれとは別でしょう!」

「うるさいわね・・・まったく、ごたごた迷わずにいい加減潔く認めなさいよ!!」

――「あたしのことが好きだ」って!――

最後の台詞は本当につぶやくようだったが、かろうじて泉田の耳に届いた。

泉田は、通行人たちの苦い咎め刺す視線、
あるいは羨望と嫉妬の入り混じった悪意の視線の中で、泣き笑いの心境になった。

しかし。それもほんの一瞬。

泉田は目を閉じ、返答とともにぎゅっと涼子を抱きしめた。

「はい。」

耳元で弾んだ声が聞こえる。

「もう二度と忘れるんじゃないわよ。迷ったら許さないからね。」

それは人生を破滅させるに十分な念押し。
でも、もう逃げられない。
どんな凶悪犯だって、この女性(ひと)から逃げ切ることなど絶対に不可能なのだから。

泉田は腕の中の美しい悪魔に囁いた。

「はい。もう迷いません。」

涼子は泉田の首から腕を離すと、背伸びをやめてすとんと地面に足を下ろした。
そしてあでやかに微笑んで告げた。

「6丁目のティールームで中国茶を飲んで、そのあとびーどろ亭に牡蠣を食べに行くの。」

泉田はやれやれと首をかしげ、涼子の体を離すと左手を差し出した。

「かしこまりました。参りましょう。」





その夜、びーどろ亭でデザートとコーヒーが出された後、
泉田は涼子から、きれいにラッピングされたチョコレートの包みを二つ差し出された。

「一つはカカオの含有量が半端じゃない苦いヤツ、もう一つは砂糖の量が半端じゃない甘いヤツ。
どっちでも好きな方をあげる。」

泉田はしばらく迷った挙句、困惑した顔で言った。

「両方頂けませんか?」

涼子がにっこり笑って、両手に持った2つの包みを差し出した。

「よろしい。さすがはあたしの参謀長、よくわかってるじゃないの。」


・・・人生甘いも苦いも、混ぜちゃえば何とかなるってことでしょうか、神様。
泉田は心でそうつぶやきながら、恭しく2つの包みを受け取ったのだった。

(END)


*丸岡さん、煽ってます、思いっきり煽ってますよ〜(笑)。この人、味があって大好きなキャラです。
待ち合わせの時間に相手が来ないって、とっても不安なことですよね。
涼子もきっと思いっきり心配したと思います。というか、本当に怒り半分だったのかも。がんばってね、泉田クン。
冒頭のイラストに付いている詩はマザーグースです。訳詩は長くなるので、日記で解説しておきますね。
いつもたくさんの拍手をありがとうございます。お返事も日記にて。