<暴風警報>


季節はずれの台風の直撃予報に、参事官室のメンバーは定刻早々に帰り支度を始めていた。

この参事官室の主は、よく台風に例えられるが、今回は比喩ではなく本物の襲来である。
それも夜半首都圏直撃とあって、すでに雨風は強くなりつつある。

「電車が止まらんうちに、帰るか。」
「そうしましょう。今日は警視も芝での会議からそのまま帰宅ですから。」

女性陣が退社挨拶を終えロッカーに向うと、
丸岡警部も泉田も阿倍も、いつになく手早く支度を整えて、部屋を出ようとしたその時。

内線が鳴り、阿部巡査が受話器を取った。

「はい、刑事部参事官室です。・・・・はい・・・はい。泉田警部補ですね。お待ち下さい。」

泉田は肩にかけた鞄を下ろし、受話器を受け取った。

「はい、泉田です。」

内容は警備部から、明日の警備応援の件だった。
海外からのVIPとあって、一応語学堪能な涼子に応援命令が出ているが、
天候が不順で一部持ち場が変わったので、至急打ち合わせがしたいとのこと。

泉田は受話器を置くと、残っていた丸岡と阿部に手早く事情を話した。

「私が行って来ますから、二人は帰ってください。」
「いや、自分はお待ちしています。」

阿部巡査が一歩前に出た。泉田は、笑って手を振った。

「いいよ、どうせ明日ついていくのも俺だ。早く帰って教会の補修をしなきゃいけないだろ?」
「しかし警部補より先に帰るわけには。」
「何言ってんだ、残るな、先に帰れ。」

まだ何かいいたそうな阿部の背広の袖を、丸岡が引いた。

「んじゃこっちの警部の言うことを聞いてもらおうか。雨が強くなる前に、帰ろう。
泉田クン、悪いがあとは頼むよ。」

丸岡がからかうような笑いで手を振る。阿部は引きずられながらも敬礼する。
泉田も安心して、笑顔で二人を見送った。

本当に丸岡は人柄が温かい。ベテランとしての味も深く、捜査技術も高い。
部下たちは救われていると改めて思いながら、泉田は閉めてしまったデスクの鍵を開けると、
ノートを取り出し、打ち合わせへと向った。





打ち合わせ自体は単純なもので、1時間程度で終わった。
通勤経路が麻痺した場合の宿泊施設の案内、またVIPのルート変更の可能性の説明が主たる内容だった。

涼子と泉田が待機するのは、出発地点なので変更は全く関係がない。
ただ問題は、通勤代替経路の確保だ。

いつも使っている地下鉄有楽町線が不通になった場合、時間に間に合わない可能性がある。
涼子は足(真紅のジャガー・本物に劣らぬ曲線美)があるからいいが、
泉田は官舎には車を置いていない。

――どうしたもんかな。――

考えながら刑事部参事官室まで戻ると、消したはずの灯りが点いていた。

おや?
泉田はもしやという思いにかられつつ、扉を開けた。
予想通り、窓にもたれて、涼子がブラインドの隙間から外を見ている。

「警視、今日は芝から直接帰ると・・・。」

「色々あってね。泉田クンこそどうしたの?帰ったんじゃなかったの?」
「あ、警備部の打ち合わせに行ってまいりました。明日の警備の件でしたが、
我々の部署に関しては、特に変更はありません。9時集合の時間厳守のみ再徹底を受けました。」

「ふーん、わかった。それじゃあ早く帰りなさい。」

涼子は、腕を組んで報告を聞き終わると、あっさりそう言ってまた窓に向き直った。

「あの・・・警視はお帰りにならないのですか?」

「もう少ししてから帰るわ。先に帰りなさい。」
「しかし電車もまもなく止まってしまうかと・・・。」
「いいから。上司が帰れと言っているのよ。」

珍しく、涼子は口数が少ない。しかもいつもより声が小さく、雨の音で聞き取りにくい。
泉田は再度帰ることを勧めようとしたが、
涼子はもう泉田の方には目もくれず、外を眺めている。

今日は車での出勤ではなかったが、この人のことだ、どこかにリムジンでも待たせているのかもしれない。

泉田はあきらめて、再び敬礼の姿勢を取った。

「それでは・・・お先に失礼致します。」
「はい、お疲れさま。」

鞄を持ってドアの方に向っても、涼子は全く泉田を見ようとはしなかった。





泉田は、ドアを出てエレベーターホールに向ったが、なかなか下りてこない様子にあきらめて、
階段を使うことにした。

2.3階下りたころで、下の方の階からの会話が耳に飛び込んできた。

「ずいぶん皮肉を言われていたな、女王様。」
「ドラよけお涼か?そうだな、今日さんざん嫌味をぶちまけたのは、各部長クラスだろう?」

「確かに強烈だったな。部下のSP転進を断ってまで飼い殺しとは、よっぽどお気に入りなんだね、とか
お父様の件があるから、芝(警務部人事)でも協力は惜しまないとか?」

「実際、あそこの部下、かわいそうだよな。俺は絶対ごめんだね。」

「ま、本人、表情も変えていなかったし、意外と堪えてないのかもしれないしな。」
「そうだな、言われ慣れてそうだしな。さ、急ごうぜ、地下鉄が止まり始めているらしい。」

カンカンと階段を下りる音が遠ざかる。いつしか泉田は立ち止まっていた。
コンクリートにうちつける強い雨風のざわめきが、窓のない階段室にも小さく響いている。

そんなことを気にするような人じゃない。
いつもそんなことは、高笑いと侮蔑の眼差しで踏み潰してしまう人だ。

そう、いつも人にさんざん八つ当たりをして、その辺りのものを蹴倒して、
俺や丸岡さんを困らせて、阿部巡査をおろおろさせて、貝塚巡査になだめてもらって・・・。

はっと、泉田は振り返った。


――そうしたくて帰ってきたんじゃないだろうか。


瞬間、泉田は身を翻し、今来た階段を駆け上がった。





廊下を走りながら見ると、参事官室は灯りが消えている。
入れ違いになったかと一瞬あせりながら、扉に手をかけ開く、

「誰っ!」

鋭い誰何の声と共に、ぴたりと定められた殺気に、思わず泉田はホールドアップの姿勢を取った。

「なによ・・・泉田クン、雨で足音が聞こえないんだから、急に開けないで!
どうしたの?忘れ物?」

「いえ、あの、なぜ電気を?」

尋ねてから、泉田はブラインドが開いていることに気がついた。
暗い窓の向こうには、横なぐりの雨と猛スピードで流れていく黒雲。

灯りが涼子の姿を浮き上がらせると、周辺のビルから狙われる可能性がある。
それでなくてもこの建物は警察ヲタクから犯罪者まで、多くの人が注目しているのだ。

泉田が自らの問いかけの答えを理解したのを表情から悟ると、
涼子はため息をついて、ブラインドを閉め、一番近くにあるデスクランプを灯した。
ぼんやりと涼子の姿が浮かび上がる。

「まったく、言うことを聞かない部下ね。」
「もう地下鉄も止まっているらしいですから。」

あら?
という表情で、涼子はいたずらっぽく笑った。

「じゃあ泉田クン、どうやって帰るつもりなの?」

あんなことを聞いてしまったせいか、少し寂しげに見えるその表情。
鼓動が少し早くなったことに、泉田は気づいた。

その心のうちを読んでか、灯りに浮かぶ涼子の美しい眉が少し動く。

「まったく君は・・どこで何を聞いて戻ってきたの?」

涼子は、静かに泉田のすぐ隣まで歩いてきた。

泉田は戸惑いながら、涼子を見下ろしている。
涼子はその肩にこつんと頭をもたせかけた。

甘い香りが泉田をかすめる。
泉田は、美しい上司のその肩を抱きたい衝動を必死に堪える。

はめ込みの窓が風でガタガタ揺れる。
雨の音が大きく部屋に響く。





――ふいに、涼子がぐいっと頭を上げ、泉田のネクタイをひっぱった。

「・・・こんなことしてる場合じゃないの、君を帰したのには理由があるのよ!」

「・・・はい?」

どんな理由があるって言うんだ、いったい。この暴風雨の中に。
きっと今とても情けない顔をしているんだろうなあ、と泉田は思わざるを得なかった。

「1人で泊まるつもりが5人になっちゃったじゃない。
ああ、もう。はい、自分のデスクの鍵を閉める、デスクランプを消す、そこの鞄取って!早く!」

5人?頭の中は疑問で一杯だが、泉田はとにかく言われたとおりに動く。もはや反射と言ってもいい。
涼子はもう扉を出て歩き始めている。

泉田が慌てて、エレベーターホールで追いつくと、ちょうどいいタイミングでエレベーターが来る。

さっきの自分のタイミングとはえらい違いだ。
それすらも涼子の強運だと何の疑問もなく思ってしまう。

涼子に鞄を渡す。
当然のようにそれを受け取って、涼子は美しい指をのばして携帯を取り出し手の中に入れる。

1階のロビーにつくと、泉田はそこにたむろっている人の多さに驚いた。
電車が止まって帰れなくなってしまった職員・官僚たちが、行き場をなくしているらしい。

「薬師寺警視!泉田警部補!」

その中に、泉田は懸命に手を振っている貝塚さとみ巡査の姿を見つけた。
隣には、丸岡と阿部が敬礼の姿勢で立っている。

涼子と泉田は3人の方へ歩いていった。
さっと人の波が割れる。

泉田は丸岡に尋ねた。
「どうしたんですか。先に帰ってくださったとばかり。」

「この子が待っていようって言うからな。」
丸岡はさとみの頭をくりくりとなでた。

「どうせ地下鉄止まっちゃったし、どうするかはみんなで考えた方がいいかなと思って。
でも警視もお戻りになっているとは知りませんでした。」

泉田は困惑した顔で涼子を振り返った。

「ご存知だったんですね?」

「地下の駐車場までリムジンで帰ってきた時に、
偶然ロビーを映すテレビカメラに3人が映っていたのよ。ああ、君を待ってるんだなと分かったの。」

この人にはかなわない。
瞬時に状況を理解して、判断を下してしまう。

泉田は八つ当たり気味に、実直な表情を崩さず立っている阿部のネクタイをひっぱった。

「まったく、言うことを聞かない部下だな。」

「あ、泉田クン、それさっきのあたしの台詞でしょ!」

涼子が笑いながら、携帯を耳にあて、話し始める。

「薬師寺と申します。そう、涼子です。支配人を。
――ごぶさたしております。
インペリアルスイートをすぐ用意出来ます?・・・ええ、5人ですの。
スリーベットルーム3・1・1で・・・結構。10分で着きますわ。
夕食はルームサービスでお願いします。こんな日ですものね、あたたかいものを。」

さとみの顔がぱっと輝いた。
「嘘っ!やったあ、憧れのインペリアルだああっ!」

周囲がざわめき、こちらに注目が集まる。

丸岡はぽりぽりと頬をかきながらつぶやいた。
「こりゃかなわんな。」

「本当はこんな体験は一生に一度で十分なんでしょうけどね。」

この上司に仕えている限り、これからもこんなサプライズは何回あることやら。

泉田は、パチンと電話を切った涼子を見た。
いつものとおり、自信に満ち満ちた横顔が、輝いている。

「桜田通り沿いにリムジンを停めてるからね、そこまで走って。」

「はいっ。」

「じゃあ皆さん、おっさき〜♪」

さとみが敬礼の姿勢で得意げな笑顔を振りまき、周りのざわめきが一層大きくなる中、
颯爽と人波を分けて、部下たちは出口に向う涼子の後に続く。

自動ドアが開くと、突風が吹き込んできた。
思わず避け、次に目を開いた皆の前には、その風に向って凛と立つ涼子の後姿。

さながら、フランス名画の『民衆を導く自由の女神』のごとく。
21世紀の超利己主義破壊神、薬師寺涼子はにっこりと部下たちを振り返り、告げた。

「さあ、行くよっ!」


吹きつける風の中を涼子が走る。
部下たちが後に続く。

走れ、走れ、どこまでも。



(END)



*インペリアルスイートは、都内のホテルにいくつかありますが、
通常3ベッドルーム、3バスルーム、ダイニングにリビングと300uくらいの広さだと思います。
・・・一泊150万円くらい?(笑)泊まってみたいなあ。
あと、『民衆を導く自由の女神』は三色旗を持っている女性が、嵐の中先陣を切って進むあの絵です。
よく見たら踏みつけられている人いるしっ、という絵。