敵の動きが予想と違う。あれはいったい何?
通路を曲がった怪物を追って泉田が、涼子の前に出て走り出す。
「ダメッ!泉田クン、離れてっ!」
止めたのに。
声を限りに叫んだのに。
怪物が自ら起こした大爆発で、涼子の3M手前は一瞬にして火の海になった。
<Crystal Dew>
「いや・・・。」
コロン(電話)が鳴っている。
なぜ・・・ここはどこ?
体が重くて動かない。やっとの思いでまぶたを開く。
朝の光が燦燦と降り注いでいる、涼子のマンション。
いつの間にかコロンは鳴り止んでいる。
まだおさまらない動悸を鎮めるように、涼子はベッドの上に座りなおした。
その途端、頬を一筋、雫が流れる。
「なっ・・・。」
夢の光景が蘇る。
心臓が絞られるような苦しさに、自分で自分をぎゅっと抱きしめる。
どれくらいそうしていたのだろう。
次は携帯の呼び出し音で、涼子は我に返った。
『あの・・・警視、おはようございます。泉田です。』
遠慮がちな声。
涼子は携帯を握り締めてじっと耳をすませた。
『モーニングコールをとおっしゃったので、いつものとおりコロンを鳴らしたのですが、
今日は3回でお切りにならなかったので、携帯に・・・警視?』
そう。今日は警視庁には行かずに、
調査の為という名目で直接泉田と博物館で待ち合わせる予定にしていたのだと思い出す。
『警視?どうかなさったんですか?』
心配そうな声。温かな声。
涼子は、ぎゅっと目を閉じると、ゆっくりと開いて、答えた。
「大丈夫よ。起きているわ。10時に博物館前ね。」
『はい。では。』
携帯を置くと、涼子は起き上がり、熱いシャワーを浴びるべくバスルームへと向かった。
どうもいつもと違う。
泉田は、展示品を見ている上司の横顔をそっと盗み見た。
モーニングコールが3回で切られなかったのは、初めてだ。
(普通はかけた方が3回で切る、が、涼子の場合あくまでも涼子が切るのだ。)
日ごろのわがままぶりからすれば意外なほど、涼子は朝に強い。
特に犯罪捜査の最中や、行きたいところがある時には、周囲がついていけないほどのテンションを発揮する。
今日もずっと楽しみにしていたはずの、メソポタミヤ古代文明の特別展示だ。
なのに、なぜか朝から反応も鈍いし、落ち合ってからも数えるほどしか口をきかない。
――何にご機嫌ななめなんだか。――
こういう時に、不器用で鈍い自分が嫌になることがある。
気のきいた言葉で、元気にさせることが出来ればいいのに。
いや、もしかして原因が俺にあることを、俺自身が気がついていないのだろうか。
泉田は、知らず知らず考えをめぐらせ、ため息をついていた。
「退屈?」
目の前に、ショーケースから振り返った涼子の顔があった。
泉田は、思わず1歩後退した。
心臓に悪い。
「大きなため息だったけど。」
「いえ、申し訳ありません。おもしろいです。非常に興味深い。」
嘘ではなかった。
展示品の数々を涼子と見学するのは、泉田にとって決して苦痛ではない。
部下になってからあちこち連れまわされているうちに、一定の素養も身についてきた。
そうすると不思議なもので、見方も深くなり、楽しみも出てくる。
「そう。ならいいんだけど。」
涼子は次の展示品へと歩き出した。
やはり元気がない。
「警視、終わったら食事をしてから戻りましょうか。朝が早かったのでおなかがすきました。」
泉田は涼子の背中に声をかけた。
涼子が振り返る。その顔には笑みが浮かんでいた。
「いいわよ。何を食べようかな。」
「お任せしますよ。」
涼子はにっこりと微笑むと、追いついてきた泉田の左腕に自分の右腕を絡めた。
少し元気になったようだ。
泉田は相変わらずの公私混同の行動に戸惑いながらも、ほっと安堵のため息をついた。
昼下がり、国道沿いのオープンカフェでランチを済ませると、2人は駅に向かって歩き始めた。
「本格的に曇ってきましたね。」
「そうね、あ、降ってきた。」
灰色の空から、細かな雪の粒が舞い降りてくる。
「これは本降りになるかもしれませんね。」
2人が空を見上げたその時。
「ひったくりだ!」
悲鳴に続いて、隣を駆け抜ける男。
「待ちなさい!」
2人は身を翻し、男を追う。
男はそのまま歩道を100Mほど走ると、停めてあった車に飛び乗った。
パン、パン。
運転席から、威嚇のつもりか。突然拳銃が乱発される。
降り始めた雪のせいで通行人は少ないが、それでも何人かが逃げ惑う。
泉田が車のドアに飛びつく。
そのまま車は発進しようとしている。
「ダメッ!泉田クン、離れてっ!」
夢と同じ自分の言葉。
涼子は、バックから拳銃を抜くと、慣れた動作で冷静に構えた。
泉田は、はっと手を離し、路上に伏せた。
瞬間、涼子の銃が連続して火を噴き、至近距離から見事にタイヤを2箇所打ち抜く。
急発進した車は撃たれたタイヤと反対方向、
即ち歩道に乗り上げ、涼子の目の前の大きなショーウィンドウに突っ込み、停まった。
あっという間の出来事。
駆けつけた警官たちが、わっと車に群がっていく。
「ありがとうございました。」
駆け寄ってきた泉田を、涼子は見上げた。
守れたんだ、この人を。
泉田の瞳を見ると、涼子の硬質な何かが少し溶けて、ゆっくりと雫になる。
その雫は、心の中で心地よい音色を立てて転がる。
涼子は息を切らせたまま、目を閉じてうつむいた。
「あーあ、ガラスの粉だらけですよ。ちょっとじっとしていてください。」
泉田は涼子の髪についた、割れたウィンドウの粉を手で払い落とした。
そして、ふとその頬に指が触れた時、
そこに溶け残りの雪が光っているのに気がつき、そっとぬぐった。
涼子は身動きせず、じっとうつむいて、まだ弾む息を整えている。
――涙?――
瞬間浮かんだ想像を、泉田はまさか、と振り払う。
この人が泣くなんて、想像できない。
でも。
この人が泣いたらきれいだろうな。
まるで涙さえ、透明なガラスか氷の欠片のように澄んで光るに違いない。
この人を泣かせることが出来るものは、いったい何だろうか。
泉田は、次は涼子のコートの肩を払いながら、そんなことを考えていた。
「泉田クン、あったかい飲み物の飲みなおし!」
いつの間にか顔を上げた涼子が、きっと泉田を睨んでいる。
「は、はいっ。しかし事情聴取が・・・。」
「後で居場所を連絡するって言って来て。全く、いい気分が台無しだわ。
いくらあたしが正義を護るべく生まれた存在だからって、
昼休みまで犯人逮捕に協力するなんて。ああ、職務熱心な自分がうらめしい。」
はいはい。
泉田は、何も知らない善良で職務熱心な警察官が聞いたら大混乱を引き起こしそうな発言に負け、
所轄警察への交渉を始めた。
守る。
守られる。
その優しさに。涙に。
雪があたりを白く染め始めていた。
(END)
*・・・拳銃ってそもそもどうやって撃つんだろう?一発当たったくらいで、車停まるのかな?
色々な疑問はありましたが、親切に教えてくださった皆様、ありがとうございました。
涼子は泣かないです。でも泣くならどんな時だろう?と禁断の夢ネタを使いました。お許しを。
いつも鈍い泉田クンがとても愛おしいです。
なお涼子へのモーニングコールの方法については、「女王陛下のえんま帳」(光文社)をご参照くださいませ。