<騎士の名誉>


「今、手元にある仕事はすべて終わりました。明日は有休を頂けませんでしょうか。」
「構わないけど、理由は?」

「一身上の都合で。」
「…穏やかじゃないわね。」


大きな背中を見送ってパタンと閉じた扉から、涼子は画面に目を戻した。
しかし、さっきまで夢中になっていた資料探しも、一気に色褪せた気分だ。

有休申請。
泉田に限って言えば、確か田舎の従妹の結婚式か何かで、一度承認した記憶がある。
それ以外は、そもそも出勤日と休日の区別もつかないような仕事内容だ。まして時間外や代休など、あってなきが如し。

たまに上がうるさく言ってくるのでまとめて取らせているが、泉田も、丸岡も阿部も、有り余るほどの有休を常に残している。

ゆえに休暇を取ること自体に何の問題もないはずなのだが…。

――なんでアタシがこんな些細なことでイライラさせられなきゃ、いけないのよ!

涼子はピンと画面を指で弾いた。





泉田は早々に退庁すると、駅前のコーヒースタンドに入り、カウンターに腰かけて手帳を広げた。

夕暮れの街は、家路を急ぐ人でいっぱいだ。日頃はあまり見ない景色に、しばし目を止めながらため息をつく。

ここ何週間かは、本当に忙しかった。

都内で目撃された動く死人(ゾンビ)を追った事件は、涼子によって解決されたが、今回は泉田がつじつま合わせの報告書を書く破目に陥った。

捜査からデスクワーク、合い間に女王様の椅子の役割も務め…いつ寝たかも覚えていない繁忙が続き、
おかげで、1か月も前から十分に準備できる期間があったはずなのに、有休を取るまでに追い詰められた。

そう、明後日のホワイトデーの準備の為に。

「何がいいんだろうな…。」

店だけはなんとか予約した。
それを告げて、待ち合わせ時間を決めた時、涼子は本当に嬉しそうな顔をした。

だからこそ、何か気の利いたものをと思ったのに。

もう時効まで48時間足らずだ。

装飾品、食品、生花、服飾品、雑貨…
泉田の頭の中は、候補品はまだこの程度の分類までだ。
石の名や希少金属、ブランド名や有名銘柄のスイーツなど知る由もない。
まだ一番わかるのは花だが、花束などありきたりすぎないかという不安がよぎる。

手帳には、日々のメモに紛れて、いくつかの候補の名が並んでいる。
雑誌で見たものや、貝塚から聞いたものばかりだ。
これを明日は、実際自分の足で探して、目で見て選ぼう。その為の休暇だ。

それにはまず、候補品の店の場所がわかり、さらに追加の候補を選べる情報誌が必要だろう。
駅の売店ではゆっくり選べない、まずは近くの本屋だな。

泉田は熱いコーヒーをすすりながら、もう一度手帳を見直しはじめた。





翌日。

「警視、刑事部長が…。」
「留守。」

「いるじゃないか、冗談が好きだな、薬師寺クンは。」

苦虫をかみつぶしたような顔で、貝塚の後から刑事部長が執務室に入ってきた。

「今から留守にしようと思っていたところですの。御用があればお伺いいたしましたのに。貝塚巡査、水。」

「…貝塚クン、せめてお茶にしてくれ。」

部長室にあるものより数段上等のロココ調のソファに腰かけると、刑事部長は、やっとデスクから立ち上がった涼子を見て尋ねた。

「泉田警部補は今日は休みかね?」
「休暇が欲しいというので、これまでの分を消化させておりますが、何か?」

涼子は部長の前にしぶしぶ腰をおろした。

「まあそう露骨に嫌な顔をするな。いい話だ。実は総監から、
年度末に向けて士気を高めるべく、日頃精勤している者に金一封を出そうという御提案を頂いた。」

「なるほど、金銭の力で士気を高めるとは、一番手っ取り早い方法ですわね、さすが総監。」
「ま、まあ…。それでだな。」

にべもない涼子の反応に、刑事部長は咳ばらいをひとつ入れた。

「その金一封の対象者に、泉田警部補はどうかと思ってな。」
「…精勤者ねえ。」

魂胆は見えた。
ドラよけお涼の下で、日頃あんなにひどい目に合っていても、総監はちゃんと見ているぞ、
それに比べればお前らはまだまだましだ、励めよ、というところか。

まったく乗り気ではない涼子を前に、懸命に話は続く。

「手元に現物は来ているので、キミさえ了承してくれればすぐにでも渡せるがな。
ああ、そうか。本人は休みだったな、じゃあ週明けにでも…。」

「待った!」

涼子は鋭い声で、刑事部長の言葉を止めた。
そしてこれまでの仏頂面をきれいさっぱり忘れたかのように、にっこりと極上の笑みを浮かべる。

「そうですの、そういうお話ですのね。オホホホ。それならぜひ泉田にやって下さいまし。
総監じきじきの金一封なんて、恐れ多い限りですわ、上司としても心から御礼申し上げます。」

刑事部長はこくこくとうなづくと、ずるりとソファからずり落ち、慌てて座りなおす。
この豹変ぶりはなんだろうか、気味が悪い。

「ところで…すぐにでも、とおっしゃいましたわよね?」
「あ、ああ。」

涼子の瞳がきらりと、凶悪なまでに美しく輝いた。





朝早々に洗濯と掃除を済ませた泉田は、昼前から銀座を歩いていた。

候補をしらみつぶしに当たるが、予算と噛みあわなかったり、どうも泉田の感覚では涼子に似合わなかったりで、なかなか決まらない。
捜査ではどんなに歩いても疲れない足が、重くなる。

「でもそろそろ決めないとな…。」

今のところまあ決めてもいいかと思える候補は二つ、
有名店で見つけた銀の天使のしおりが付いたワインレッドのブックカバーと、某有名ブランドのミルクキャンディ。

女性にブックカバーのプレゼントというのは固すぎやしないか。泉田自身はもらったらよろこんで使うだろうが、涼子はどうだろうか。

また、20代も後半の女性にキャンディはどうだろうか。
しかしもともとバレンタインデーはチョコを贈る日、ホワイトデーはキャンディを贈る日ではないのか?・・・少なくとも日本では!

やけ気味にそんなことを考えているうちに、時計が二時を回ったことを告げる。
よし、どこかで昼を食べながら最後の決断をしよう。
そう思って辺りを見回した時に、内ポケットで携帯が鳴った。

ディスプレイの表示は『ドラよけお涼』。





『というわけで、休暇中に悪いんだけど、すぐ戻ってきてくれる?』

涼子の声が携帯から響く。
泉田は瞬間慌て、そしてそれが収まるとだんだん腹が立ってくるのを抑えられなかった。

いつもの涼子なら、刑事部長の命令くらい簡単に蹴飛ばすはずだ。
それを受けたのは、泉田の休暇を妨害したいからに違いない。

この休暇は誰の為にとったと思っているんだ!

「お受け…できません。」

泉田はぐっと歯を食いしばると、一気に言い切った。

「不急の事態と拝察します。来週にして頂けませんか。」

しばらく電話の向こうで沈黙があったが、
やがてさっきの華やいだ響きを脱ぎ捨てたかのような、きっぱりとした声が告げた。

『命令よ、戻りなさい。何分で戻れるか、今すぐ報告。
それでも戻れないというのであれば、そちらの事態を聞かせてもらおうじゃないの。』

泉田は怒りが収まらぬまま肩を落とした。こうなったら、所用を済ませて戻るしかない。

「あと1時間半猶予を頂けますか。」
「わかったわ、1時間半待ちましょう。じゃあ余裕を持って15時45分に部長室前で。」
「了解いたしました。」

泉田は、携帯を切るなり走りだした。





涼子は携帯を切ると、溜息とともにデスクにコツンと額をつけた。

子供じみたことをしていると、自分でもわかっている。
泉田が休暇を申し出るということは、よほどのことなのだ。

だからこそ、知りたかった。何をしているのか、誰と一緒にいるのか。

縛られている。この恋にがんじがらめに囚われている。
そう考えると、たまらなく自分がみじめに思えてきて、涼子はすっくと立ち上がった。

何を遠慮することがあるんだろう。
あたしは泉田クンの上司だ、ミチビキの星だ、生殺与奪権はあたしにある。
(為念注意:これはお涼サマの法律であって、日本国の法律ではありません)

ましてや彼は、本人が自覚していないだけであたしに惚れている(はず)。

「大丈夫。」

涼子はくるりと踵を返すと、脚を高々と上げ、コート掛けに下がっていたコートを蹴り上げた。
ふわりと宙を舞ったオフホワイトのスプリングコートを、ぱさりと受けとめると、足音も高く部屋を出る。

「お茶してくるわ。そのまま部長室に寄って帰ってくるから。」

「御苦労さまです。」「おつかれさまで〜す。」

部下たちの声を背中に、涼子は軽く手を振ると、背筋を伸ばし歩き始めた。





泉田が警視庁前にタクシーを乗り付けたのは、15時40分だった。そのまま階段を駆け上がる。

15時43分到着。麗しの上司は、既にドアの前に立っていた。

「入るわよ。」
「はい。」

泉田は必死で息を整え、涼子の後に続いて部長室に入る。
刑事部長には時間が連絡されていたらしく、既に準備が整っていた。

「おめでとう、総監からだ。」
「ありがとうございます。一層励みます。」

敬礼し、深く一礼し、型どおりに金一封を受け取った泉田を、刑事部長は満足げに見守った。

「いやあ、優秀な部下を持って幸せだね、薬師寺クン。」
「恐れ入ります。」

後ろで涼子も型どおりに頭を下げる。泉田は涼子にも敬礼の後、深く一礼する。

「警視のご指導のおかげです。ありがとうございます。」
「そうだろう、そうだろう。」

涼子は何も言わずに、無表情に軽く頭を下げた。
いつになく調子のいい刑事部長の弁舌に、泉田はただ苦笑いするしかなかった。

「これであとは薬師寺クンが出世したら、それこそ部下としては誉れとするところだな。」
「は…。」

泉田の頭の中は疑問符だらけだったが、培ってきた官僚としてのバランス感覚はどちらつかずの返事をきちんと返していた。
どうもキャリア官僚の論理はよくわからない。
上司の出世をすべての部下が喜んでいると思うなよ!

「では失礼いたします、部長。」
「ああ、御苦労さま。」

涼子の言葉に、泉田ももう一度敬礼し部屋を出た。





廊下を先に立って歩き始めた涼子の後ろを、泉田は歩いていた。

「もう、いいわよ。」

ふいに立ち止まって背中を向けたまま、涼子が言った。

「休暇に戻りなさい。」
「そういうわけにはいきません。」

涼子が振り向いた。そこにはいつもと変わらぬ穏やかな泉田が立っている。

「頂けたのは、警視はじめ参事官室のみんなのおかげです。お礼を言わせて下さい。」

「でも…忙しそうだったじゃないの。」
「用はもう全て済みました。」

ご指示に即答せず大変失礼いたしました、と頭を下げた泉田に、
涼子はここに来るまでにお茶を飲みながら培った覚悟(?)で問いを投げた。

「何をしていたの?」

やっぱり。
微妙に揺れるその言葉に、泉田は何も今日でなくてもよかった話であったことを知った。
しかしその涼子の迷惑な、小さな独占欲を、泉田はもうとうに許す気になっていた。

走りまわって、普段着では出勤できないとスーツまで買って、買ったものをロッカーに放り込まねばと、
どたばたしている間に、あきらめてしまったのかもしれない。よく考えてみればかわいい話だ。
それに、今日、金一封の話が来たのはまったくの偶然、これも天命だ。

…ここまで考えてしまったらもう、泉田の負けである。


「プライベートですから、申し上げられません。…明日までは。」


泉田の答えに、その意味を悟った涼子が目を輝かせる。
何とも言えない眩しい、美しいエネルギーが紅潮した頬に満ちる。

飛びついてきそうなその勢いに、泉田が慌てて言葉を継いだ。

「とにかく早く執務室へ帰りましょう。みんな待っている。」

涼子の背にさりげなく手を回してエスコートしながら歩き始めた泉田を見上げて、涼子は言った。

「だってさ、今日受け取っておけば、明日の軍資金になるでしょ?」
「…さあ、それはどうだか。」

泉田が執務室の扉を開け、涼子を中に入れて後に続くと、一斉に拍手が起こった。

「おめでとう、泉田クン。」
「おめでとうであります、警部補!」

貝塚が泉田の傍に駆け寄って、手に持ったのし袋を見上げる。

「うわあ、すごい!よかったですね〜。女王陛下を守り抜いた証、騎士の名誉って感じ。」

騎士の…名誉。
何かが違う気がする。

さっきの『部下の誉れ』よりは近いかもしれないが、
本当にこの人を押さえきれた証として表彰されるなら、日本の平和を守ったのと同じことだろう。
それなら警視総監からのれっきとした表彰状モノだ!金一封で片づけられたくないぞ!!

それにその騎士とやらは、きっとこんなにどたばたと走り回ることはないに違いない。

泉田は心で色々つぶやいたが、そんな事を言っても誰もわかってくれまいと、貝塚のおでこをつつくに留めた。

そして。

「今夜は乾杯だな。」
「そうですね、皆でお祝いしましょう。では自分が店を取ります。」
「やった〜!」

いそいそと早くも帰り支度を始める面々に、涼子も苦笑いをした。
これでは金一封も残りそうにない。

これでいいのか、と泉田を見上げれば、おおらかに皆に向かって微笑んでいる横顔が見える。


――やっぱりあたしのやることは、何もかもうまくいくのよ。

涼子は笑顔で満足げに頷いたのだった。



<END>




(おまけ)

「12時になったから開けていい?」

皆でさんざん騒いだあと、いつものように送ってもらい、
そしていつものように部屋でソファーに並んで一緒に飲んでいる泉田に、涼子は尋ねた。

「いいですよ。」

帰りにロッカーに寄って取ってきた紙袋には、2つの包み。

「うわあ。」

片方の金色のリボンの包みにはブックカバーが、
もう片方のシフォンレースに包まれた包みにはミルクキャンディが入っていた。

「2つもいいの?」
「…決める時間がなかったんです。いや…。」

時間があっても決められなかったかもしれないな、と泉田は苦笑いを浮かべた。

「優柔不断なんだから。」

気に入ってもらえましたか?と尋ねる泉田の胸にもたれかかりながら、涼子はつぶやいた。

「ありがとう。」

泉田は、長かった一日を思い返しながら、愛しさをこめて涼子を抱きよせ、その髪に口づけた。
愛しい人を胸に抱けるのは自分だけ、この瞬間が恋人としての最高の名誉。


終わりよければすべてよし。
Happy Whiteday





<ほんとにEND>



*よい夜を、お二人さん。
長くなってしまいました、申し訳ない。お涼サマも恋には迷ってばかりだと思うんですよね。
甘えてみたり、ちょっと拗ねてみたり…この「ちょっと」が常識人とはレベルが違うところが、また楽しいわけですが、
へこたれないで、今回のように元気に立ち直って、泉田クンをどこまでも振りまわしてほしいです。


しかしこの薬師寺涼子の怪奇事件簿に、パワハラとか公私混同とかいう用語は本当にそぐわないですね。
今回も文中で2回出してみて、2か所とも最終カットしました…。いいんです、お涼サマが法律で。