偶然・・・思ってもいなかったこと、どうしてなったか理由のないこと。
必然・・・必ずそうなるに決まっていること、必定(ひつじょう)。
(『旺文社 標準国語辞典』出典)


<KISS>

泉田は、こってりと刑事部長に絞られた。
先週解決した事件の、器物損壊の規模が莫大だったことは事実だ。
しかし犯人は珍しく(!?)人間で、それも凶悪犯。

――お涼だったから逮捕できたんじゃないのか。――

そう思ったことが顔に出たのか、刑事部長はさらに畳み掛けてきた。

「行き過ぎた上司の行動を諌めるのは部下の役目なんじゃないのかね?泉田警部補。」

「はっ。」

「身を挺しても、だろう?」

「・・・はっ。」

お前の身を挺してみろ、と言いたい。
本当に身を挺して諌めたら、命がいくつあっても足りない。

「まあいい。彼女も結婚すればおとなしくなるだろう。君の苦労も少しは減る。」

・・・結婚。
泉田は、はあっとため息をついた。

前にとんでもない黒魔術使いが、彼女に求婚したことがあった。
その時に彼女の意思は確認できた。
彼女が必要としているのは結婚相手ではなく、忠実かつ有能なる臣下、下僕。

それなのにまだそんな夢を見ているのかこの部長は、
と思ったのが、またまた表情に出たらしい。

「君が疑う気持ちもわかる。だが、今度はどうやら本当だ。警視総監の肝入りで、
ちゃんと薬師寺社長(←涼子・父)にも手を回・・・ご理解を頂いてるご縁だからね。
外務省所属、皇室へ入った方の同期エリートで、
将来大臣席は間違いないと言われている人物だ。
海外生活が長いから、女性に関して懐が広い、理解もある。」

どんな人だが知らないが、どっちへ転んでもご愁傷様だ。
泉田は、あさっての方向を見つめながら、部長の説明を聞き流していた。

「信じていないな。このところ彼女は早く帰っているはずだがね。1日や2日でなく。」

泉田の頬がぴくりと動いた。

確かに。
涼子の帰りはこのところ早い。
以前は頻繁に泉田に一緒に帰ろうとねだっていたのが、ぴたりと言わなくなった。

参事官室でも今朝それが話題になり、まあ女王様の気まぐれかもしれないから様子を見ようと、
皆で静観を決めたところだ。

「つまり・・・薬師寺警視は今その方とおつきあい中だと?」
「そうだ。君たちを救ってあげた上層部には感謝してほしいものだね。以上、行ってよし。」

感謝する筋合いもないが、泉田は黙って軽く敬礼し、一礼すると踵を返した。



長いお説教のおかげで、冬の日はとっぷりと暮れていた。

廊下を歩き、
参事官室の扉を開けようと手をかけた瞬間、中から思い切り扉が開いた。

「あ、ごめん、泉田クン。お先。」

初めての香水。
薔薇に似た甘い香りが鼻先を掠めた。

涼子は軽く手を振ると、エレベータの方へ急ぐ。

泉田は、後ずさって敬礼で上司の後姿を見送った。
珍しくヒールもさほど高くない。着ているスーツもめったに見ない淡い色だ。

『君が疑う気持ちもわかる。だが、今度はどうやら本当だ。』
部長の言葉がよみがえる。

参事官室はもう誰も残っていなかった。
まだ6時を少し過ぎた時間だ。

一旦捜査が始まったら、帰れるかどうかもわからない現場生活が長かったこともあり、
早く帰るという贅沢に、泉田は慣れていない。

ここに配属されてからも、
いつのまにか涼子と食事をして送り届けることが多くなっていて、
こんな時間から一人になると、妙に手持ち無沙汰だ。

今週は特にずっと帰りが早かったので妙に読書が進み、家事も終わっている。

泉田はひとつため息をつくと、コートを取って部屋を出た。



散歩代わりにゆっくりと歩いて、久しぶりに来た銀座のバーは、
週末であることも手伝って早い時間からそこそこ人が来ていた。

カウンターの隅に座り、煙草に火をつけ、琥珀色のグラスを揺らす。
一人のこういう夜もずいぶん久しぶりだ。

もしも彼女が結婚したら、あの稀なる活動エネルギーの放出量は少し緩和されるのだろうか?
・・・少なくとも、自分が必要とされる時間は少し減るのだろう。

――否応なしに巻き込まれてきた悲劇も、やっと幕引きか。――

どこかで読んだことのある台詞が頭をよぎる。
なんとなく今夜は酔いそうだと思った。



2軒目のバーを出たのは11時過ぎだった。

冷たい夜風が気持ちいい。酔った頬を心地よく冷ましてくれる。

泉田は地下鉄の駅に向って歩き始めた。

その時、何となく空気がざわめき揺れた。
なじみのある感覚。

そう、彼女が登場するといつも、周囲の空気は落ち着きをなくす。

見慣れた琥珀色の短い髪。
完全無欠のしなやかな曲線を描く肢体。

涼子がこちらに向って歩いてくる。
泉田より少し小柄な、しかし一目で穏やかな紳士と分かる年上の男性に右腕を預けて。

心臓がぎゅっとつかまれるように痛む。

最悪。
泉田は思わず天を仰いだ。なぜここで、このタイミングで会わねばならない。

涼子と目が合う。泉田は小さく会釈をして、目を逸らす。

そうして距離が縮まり、まさにすれ違う瞬間。

泉田は甘い香りに包まれた。

「泉田クン、ごめんなさいね、さっき電話に出られなくて。」

涼子が申し訳なさそうな顔で、至近距離から泉田を見上げる。

「は、はい?」
「緊急事態だったの?気になっていたの。」

何のことだ?
泉田はかなり酔いの回った頭で全力で考えたが、何も思い浮かばない。

ぎゅううううう。

痛いっ!
思い切り涼子に足を踏まれる。そして。

『あたしの手をひっぱって、あそこのタクシーに乗り込みなさい!』

魔女の囁き。絶対指令。

「な、なんで・・・。」
とっさに動けない泉田の足を今度は密かに蹴り飛ばすと、涼子は連れの男性にすまなそうな顔を向けた。

「ごめんなさいね、泉田くん。あたし・・・どうしようかしら。林野さん、あの、緊急事態のようなので。」

林野と呼ばれた連れの男性が、戸惑ったような顔でこっちを見ている。
これが噂の外務省キャリアなのだろう。

再び思い切り足が踏まれた。
痛いっ。えいっ、上司さまのご命令だ。

泉田は思い切り涼子の手を引きながら、手を上げてタクシーをつかまえた。

「ごめんなさい。じゃあまた。」

涼子はひっぱられる振りをしながら、ぐいぐいと泉田を押している。
泉田は相手の男に軽く一礼し、先に涼子をタクシーに押し込んだ。



「晴海通りをオフィスタワーの方まで。」

タクシーが滑り出すと涼子は冷静な声で行き先を告げた。
そのまま足を高々と組んで、窓の外を見つめている。

「・・・警視、どういうことですか?」

泉田は涼子にきつい口調で問いかけた。
涼子は答えない。

「警視!」

「うるさいっ!」

そのまま2人は口をきかず、まもなくタクシーは海に面したオフィスビル群の中に止まった。



もう人影がほとんどないビル前の広場。

「まるで光の輪みたいね。」

スタンドコーヒーショップの灯りと、小さなライトに照らし出された空間は、涼子のつぶやきどおり、
ぼんやりとした光の輪がいくつも連なっているような、幻想的な場所だった。

「まだ怒ってるの?」

海に面した柵にもたれた泉田の前に、涼子が立つ。
泉田は横を向いたまま答えた。

「あたりまえでしょう。」
「泉田クンに会えて、あたしはすごく嬉しかったのに。なんで怒っているかなあ。」

涼子は泉田の顔を覗き込む。
泉田は目を逸らしたままでいることが出来ず、涼子の方に向き直った。

「デートだったんでしょう?しかも結婚前提の相手と。」
「よく知ってるじゃない。」

「だったらどうして。」
「とにかく嫌だったの。どうせ警視庁(ウチ)の上司たちが絡んでいるんでしょう?
百倍にして返してやる機会をしっかり掴むまで待っていただけよ。それももう今夜で十分だったしね。」

「あなたって人は・・・。」

涼子は泉田の隣に並ぶと、夜空を見上げながら言った。

「でもやっぱり自分から断るってあとあと不利じゃない?
だから泉田クンが来てくれてよかったわ。君は今頃どう思われているかしらね〜?
上司の恋人に嫉妬した部下?それとも職務を口実にしたセクハラ・・・。」

泉田はやっと自分の置かれている立場を深く理解し、大きなため息をついた。

「やめてください・・・私は偶然、上司の陰謀に巻き込まれた哀れな部下です。
それ以外の何者でもありません。」

「あら、こんなロマンティックな舞台で、そんなこと言うの?」

涼子は伸び上がると、軽く泉田の頬にキスをした。
泉田は驚いて大きく目を見開いた。

「け、警視っ!」

「いちいち無粋な男ねえ。大きな声を出さないで。
本当は泉田クンがあたしにキスして、
『お詫びに今夜は何でも君の言うことを聞いてあげる』って言わなきゃいけないところを、
いつまでも突っ立ってるからあたしがキスだけは代演してあげたのに。
拉致されて怖い目にあったけれど、それも愛ゆえ。
結局ヒロインがヒーローの深い思いを知るシーンなのよ、ここはっ!」

勝手にストーリーを作って、演出指導をしないでほしい。

拉致してない。
逆らう余地もなくタクシーに乗せられ、不安な思いをしたのはこっちだ。
泉田の心のつぶやきなど、もちろん聞いてもらえるはずもなく。

涼子の右腕が泉田に絡められる。

左腕が温かい。
さっきあの男と涼子を見た時に感じた、痛みに似た違和感が埋められていく。

同時にふと沸く疑問。

「警視、まさかあそこで私と会うことも計算していたんじゃないでしょうね?」
「あたしの強運からすれば、必然ね。」

さらりと答えられて、泉田は絶句した。
まさか。

偶然まで必然にしてしまう悪魔の加護。
かなわない。
泉田は苦笑した。そうなると酔いのせいか笑いが止まらない。
くっくっと喉の奥で笑っていたら、涼子が拗ねたような口調で尋ねた。

「何がおかしいのよ。」
「いや、あなたらしいと思ったんですよ。」

「もう怒ってない?」
「ええ、もう怒っているのがバカらしくなりました。いいですよ。
偶然に出会えたのも、あなたの強運ということにしておきましょう。」

「じゃあ言って、『お詫びに今夜は何でも君の言うことを聞いてあげる』って。」

もうどうでもいい。
酔った頭が、とりあえず言うとおりにしろとあっさり判断を下す。
時計を見ながら、泉田は涼子を抱き寄せた。

「今夜は、何でも君の言うことを聞いてあげる。」

そっと耳元で囁く。
涼子がぎゅっと泉田のコートを掴んで、頭をもたせかける。
甘い香りがする髪をなでながら、泉田は言葉をつなげた。

「日付が変わるまで、あと10分ですからね。」



涼子ががばっと顔を上げた。

「どういうことっ!」

「『今夜』の定義は『今日中』です。
12時になったらタクシーに乗せて、マンションまで送り返します。」

「なんでっ!そんなこと誰が決めたのよ!
今夜っていうのは夜が明けるまでってのが常識でしょう!?」

「そんな長いシーンは撮れません。さあ、こんなことで時間をつぶしていいんですか?
時間がないですよ。お願いは?」

微笑む泉田から目を逸らして、涼子はしばらく拗ねていたが、
やがて顔を上げて泉田を見上げた。



涼子がお願いをつぶやき終わるまでの間に、
泉田はそっとその薄紅色の唇を、唇でふさいだ。

このシーンとこの思いには、やっぱりキスが必然だったから。


(END)



*涼子のお願いは、どうぞご想像ください。
週明けの上層部の反応が怖いですが、いいかっ、今夜は甘甘で。