<9月の雨>
「Comment allez-vous(ごきげんいかが)?」
そう問いかけてくれる女性警官に笑顔で軽く手を振り返すと、涼子はICPOの門をくぐった。
ここにも2年、顔なじみも増えた。でもその生活ももうすぐ終わり。
すっかり涼しくなった曇り空に向かって、涼子は大きく伸びをした。
すっかり荷造りの整ったデスク周りは妙に殺風景で座っている気にならず、
涼子は資料室へと足を運んだ。
ずらりと並べられたファイルと、お国柄かしっかりと大きく優雅な閲覧机に幸せのため息をつく。
ICPOにもイライラさせられることが多かったが、本当にこの資料室だけは最高だった。
知りたいことをみんな教えてくれた。
「やあ、リョウコ。ブエノスアイレスの出張からはいつ帰ってきたんだい?」
FBIから出向してきている、若い男性刑事が声をかけた。
彼はここにいる間に、涼子にFBIについてレクチャーする代わりに日本語を教わった。
「1週間前よ。暑かったわ。」
「あっちのICPO支局はほとんど軍隊なんだろう?」
「そうね、あたしはああいうの好きだけど。」
「リョウコらしいよ。ところでセーヌの岸辺で別れを惜しむ相手はいないのかい?」
「ほおっておいてよ。」
涼子はツンとそっぽを向いた。男性刑事は白い歯を見せて笑った。
「そりゃ残念だな、外はおあつらえ向きに『9月の雨』だってのに。甘い思い出もなしか。」
「え?降ってる?雨。」
涼子はふくれていたことも忘れて、窓の外を見た。
白い糸のような雨が灰色の空から落ち始めている。
奥から男性刑事を呼ぶ声が聞こえた。
「じゃあな。別れを惜しむ相手はいなくても、日本で待っていてくれる人はいるんだろう?幸せに。」
「まあね、ありがとう。」
軽く手を振って奥に消えていく同僚を見送ると、涼子はまた窓の外に目を戻した。
『日本で待っていてくれる人はいるんだろう?』
「さあ…あたしのコト、覚えているかしら?」
頭に浮かんだ、のっぽの先輩の姿に心で問いかけてみる。
「まあ、忘れているならすぐに思い出させてあげるけど。」
涼子は手帳の間から、英語で書かれ伝達された内示を取り出し、軽くキスをした。
『The Lieutenant(警部補):Jyunichiro Izumida』
雨の中、渋滞にも関わらず、涼子はずっと窓の外を眺めながら、鼻歌を歌っている。
――ごきげんだな…まあ、ふきげんよりははるかにいいけれど。――
ハンドルをにぎりながら、泉田は涼子の横顔を見守った。
「この歌知ってる?泉田クン。」
「いえ…どこかで聞いたことはあるように思うのですが。」
「JAZZの名曲でね、『9月の雨』。」
なるほど。泉田は大きく頷いた。
「今日の天気にぴったりの曲ですね。」
「そうでしょ。そうなんだよね。」
本当は車を止めて歩きたいところだと、涼子は思った。
パリは東京より季節が1か月早い。
この歌の歌詞のように、雨で落ちた葉を踏みながら、愛の言葉をささやいてもらうにはちょうどよかったのに。
まあ、多少の気温のズレはこのさいいっか。
「泉田クン、ちょっと車を止めて散歩しましょう。」
「は?」
大渋滞中。しかも取りかかっている事件は解決しておらず、警視庁へ追加資料を取りに帰る途中だ。
「あの、警視、しかしこの状況では…。」
「いいから!黙って言うとおりにおしっ!グズグズしている間に雨が止んだら大暴れしてやるからねっ。」
「…はい。」
泉田はブーブークラクションを鳴らされながら、駐車場を探して頭を下げ下げ左へ左へと進路を取っていく。
そういえばこの季節は、この人が帰ってきた季節だ。
すべての悪夢はそこから始まった。
「♪In September in the rain ♪」
涼子はまだ鼻歌を歌っている。
その横顔はとても幸せそうで、泉田は苦笑いを浮かべながら大きなため息をついた。
仕方ない。さあ、車を止めよう。…どこに?
泉田は小雨の中目をこらして、パーキングの空車マークを探し始めた。
そう、出会いは季節が夏から秋へと移る頃。
雨がたくさん降って地が固まるといいね、お二人さん。
(END)
*「September in the rain」はJAZZの名曲なので、ボーカルが入ったものも多分聞けます。ご興味があればぜひ。
歌詞の中の「あなたがささやいてくれる愛の言葉を 雨音が甘く繰り返してくれるみたいで」というあたりがロマンティック。
お涼サマにとっちゃ、思い出深い季節なのかなと思って合わせてみました。
泉田クンにこの風情が理解できなくて、ものすごく叱られるまで、そう時間がかからないような気がしますが…。