<命令無視の末路>
「あそこよ!」
夜空を指差す涼子の目の前で、建物が3階部分から崩れ落ちる。
「警視!」
泉田は、自分の前に立つ涼子の腰を抱き、体ごとを胸に入れると
横飛びに転がって、地面に伏せた。
連続して爆音が響き渡る。
ひたすら体を丸めて落下物から身を守る。
「うっ!」
右足に強い痛みが走る。
胸の中の涼子が、動こうとするのを必死で押さえつける。
――行かせない!――
猿のような正体不明の獣を追いつめる為に、
涼子は日夜あちこち走り回り、罠をはっていた。
そして今夜、この町外れの建物に誘い込み、
万が一の場合には建物ごと爆破しようと準備をしていた矢先に獣が現れ、
あまつさえ積まれた火薬を蹴散らし、そこにあせって発砲した警備隊の銃弾が命中した。
涼子を最前線に残したまま。
獣は爆発寸前に空へ向かって飛んだ。
涼子は、泉田の腕から逃れようと必死にもがいている。
しかし爆発による熱風が何度も耳元をかすめる。
とても立ち上がれる状況ではない。
「痛いっ・・・やめて・・・ください、警視。」
思い切り泉田の手の甲に爪を立てた涼子へ、うめくような声で告げる。
「無理を・・・しないでください。機動隊がいます。彼らが追ってくれます・・・。」
救助、早く。
半ば祈るような気持ちで、泉田は涼子を抱きなおした。
その時、バシュっという音があちこちから起こった。
次の瞬間、体中に痛いほど水が降り注ぐ。まるでスコールを浴びているようだ。
放水車による消火が始まったのだ。
泉田はゆっくりと目を開くと、上半身を起こした。水しぶきが、体を叩く。
あわててもう一度、涼子を胸に抱き、降り注ぐ水からかばう。
だが、その腕はぐいっとねじ上げられ、痛さに顔をしかめる間もなく払いのけられた。
びしょぬれの髪からのぞく瞳が、鈍く光っている。
「あいつはもう1人殺してるのよ、これ以上の犠牲者が出たらどうすんのよ!」
水音で聞き取りにくいが、かろうじて見える唇の動きに、泉田には涼子の怒りが見て取れた。
その時、建物と反対側から声が上がった。
「捕獲したわ!機動隊、集合してこちらを支援!消火は続けて!」
室町警視の指示が、高らかに響き渡る。
「ちっ!」
涼子はゆっくりと立ち上がり、降りしきる水の中で髪をかきあげながら、泉田を見下ろした。
「・・・命令無視とはいい度胸ね。沙汰があるまで自宅で謹慎していなさい、泉田警部補。」
水音の中、地獄の底から響くような宣告が耳に突き刺さる。
起き上がり敬礼すべきだと気づいて立ち上がろうとしたが、右足に激痛が走った。
何かの破片があたったのか、力が入らない。
「助けが来るまで、動かないことね。」
駆け寄る救急隊に声をかけ、遠ざかっていく涼子の背中を、泉田は唇を噛み締めて見送った。
実際泉田は、救急隊が来るまで動けなかった。
右足は骨にひびが入っており、スーツは焦げて、あちこちに火傷を負っていた。
都内の病院に輸送され、
ギブスをつけてもらい、手当てが終わるとすっかり夜は明けていた。
参事官室に報告の電話を入れると、応対してくれた貝塚巡査が申し訳なさそうな声を出す。
「自宅謹慎を言い渡してあるから、出勤には及ばずとおっしゃるんですが・・・。」
ああ、あれは幻聴でも幻覚でもなかったか。
「ケガは大丈夫ですか?」
貝塚巡査の心配そうな声に答え、とりあえず自宅に戻る旨を告げて、電話を切る。
地下鉄に乗る前に、新聞を買った。
地方版社会面の隅に、ぎりぎり間に合わせたような簡単な記事で、
都内で人を襲っていた大型の猿が射殺されたことがまとめられている。
どう見てもただの猿ではない高度な生物だったが、それは蒸し返してもしょうがない。
あそこまで誘い込んだことで、十分捕獲の体勢は整っていた。
射殺できたことは、外部報道ではともかく、警察内部では薬師寺警視の手柄だ。
――命令無視・・・か。――
走る地下鉄の窓に映った、絆創膏と包帯でほとんど埋められた顔。
あの時かばわなかったら、彼女はどうなっていただろう。
あの爆風と落下物の中、彼女はどうするつもりだったのか。
最寄駅から、自宅までの間、泉田はずっとそのことを考え続けていた。
部屋に戻って痛む体をソファに横たえ、天井を見上げる。
命令無視・・・悪くて懲戒免職、良くて降格交番勤務か。
いずれにしても、もう、涼子の側にはいられない。
そのことが胸を締めつける。
「せいせいするな・・・。」
何度も命の危険にさらされ、度が過ぎるわがままぶりに胃を痛めていたのに。
このつぶやきが本当の気持ちにならないのはなぜだろう。
泉田は再びぎゅっと唇をかみ締めた。
そして引きずり込まれるように、いつしか深い眠りに落ちていった。
気がつくと、辺りはすっかり暗くなっていた。時刻は20時をまわっている。
あちこち痛む体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。杖があれば、なんとか歩けそうだ。
体を拭き、着替えたところに、呼び鈴が鳴った。
今頃誰だろうか。
ドアミラーで外を確認しようとのぞいた瞬間、ガンッとドアが思い切り蹴られた。
「せこい真似をせず開けなさい!」
泉田はあわててドアを開いた。
玄関先にずかずかと、麗しの上司が入り込んでくる。
「何?誰だと思ったの?」
「あの、この時間の訪問者に心当たりがなかったので相手を確認しようと・・・。」
「律儀なことね。」
涼子はヒールを脱ぎ捨てると、部屋に上がりこんだ。
あわてて杖を使いながら、泉田が後を追う。
「狭い部屋ねえ・・・布団はあるの?」
「は?」
「あたしが寝る布団はあるのかって聞いているのよ。」
泉田の頭は混乱の極みに陥った。
「あの、布団なら一応予備がもう一組・・・。」
「ふ~ん。じゃあ食材は?」
「食材?」
戸惑っていると、ぐいっとTシャツの襟首をつかまれた。
「あたしが食事も作ってやろうって言ってるのよ。」
え?え?
呆然とした顔の泉田を見て、勝ち誇った笑いを浮かべた涼子が狭いキッチンを見回す。
全身の傷が一斉に痛み始めた。
とにかく料理だけはさせてはいけない。健康体ならともかく、今は耐えられる自信がない。
「警視、あの、なぜ・・・。」
「決まってるでしょ?世話をしに来てあげたのよ。どこが痛いの?言ってごらんなさい。
ケガ人ですもの、例え命令無視をした部下の包帯でも、巻きなおしてあげることはやぶさかではなくてよ、
おーっほほほほ。」
悪魔だ。
泉田は背筋がぞっとするのを感じた。
が、高笑いをしていた涼子は、泉田から手を離すと、続いてけほけほと咳き込んだ。
そういえば、入ってきた時から声がおかしかったような。
泉田はふと思いついて、涼子の額に手を当てた。
少し熱い。
「警視、風邪をひかれているのではないですか?」
「そうよ、命令を聞かない部下のせいで、まだ寒いのにひどいスコールを浴びたんだもの。」
「そんな体調で、どうしてこんなところに来たんですか。」
「泉田クン・・・それを上司に問う前に、まず言うことがあるでしょう!」
かすれて、咳き込みながらも涼子はきっと泉田を睨んだ。
泉田ははっと机に摑まり立ちなおすと、敬礼の姿勢を取り、次いで深く頭を下げた。
「警視の命令を無視いたしましたことを、深く反省しお詫び致します。
二度とご迷惑はおかけいたしません。」
「ほんとに?」
「本当に。」
「絶対?」
「絶対に。」
「・・・。」
泉田は目を閉じてじっと頭を下げていた。
ふと、視線を感じて目を開ける。
床に座り込んだ涼子の凛とした瞳が、どこかいたずらっぽく泉田を見上げている。
泉田はおそるおそるその瞳を見つめ返した。
涼子がすくっと立ち上がった。
「よろしい。みっちり再教育するから、音を上げるんじゃないわよ。」
「はいっ。」
泉田はゆっくりと頭を上げ、敬礼の姿勢で、苦笑いを浮かべた。
「警視、風邪がひどくなりますから、ご自分のお部屋に帰って休んでください。」
「いーやーだー!ここで寝る!泉田クンの世話をする!」
「警視!」
けほけほけほ。
何か言いかけた涼子が咳き込む。そして鋭い視線で泉田を射る。
――まだ言うか!?――
その視線に、泉田はこれ以上逆らえないことを悟る。
「わかりました。じゃあ布団を敷きますからとにかく早く休んでください。」
「わーい。」
泉田は、洗濯して置いてあったパジャマを涼子に押し付けて隣室へ追いやり、
痛む体を引きずって予備の布団を引っ張り出して整え、
さらに自分の布団をさっきまで寝ていたソファの上にセットした。
「なに?一緒に寝ればいいのに。」
着替えて出てきた涼子の指摘に、泉田は眉間に皺を寄せて答えた。
「そういうわけにはいきません。けじめというものがあります。」
「由紀子みたいなこと言わないでよね。」
強気な口調とはうらはらに、敷かれた布団の上にくったりと横になった涼子の額に、
もう一度手を当ててみる。やはり熱い。
「冷やした方がいいかもしれませんね。ほら、ちゃんと布団に入って。」
「さっき薬を飲んだから、多分もう大丈夫よ。」
涼子を寝かせて布団をかけてやると、泉田は洗面器に氷を浮かせて水を張り、
杖をつきながら何とか涼子の枕元に持っていって、タオルを絞ると額に当ててやった。
「・・・気持ちいい。」
「朝までにひくといいですね。」
「ん。」
「では目をつぶって。ゆっくり休んでください。」
痛たたたた・・・。
そうつぶやきながら、泉田は足を伸ばして涼子の枕元に座りなおした。
「眩しい・・・。」
「はいはい。」
リモコンで部屋の照明を落とす。涼子の手が、泉田の方に伸ばされる。
泉田はその手を取ると、ぽんぽんと叩いて軽く握った。
「警視・・・一つだけ聞いてもよろしいですか?」
「・・・ん。」
「昨夜、私はどうすればよかったのでしょうか。」
ずっと聞きたかった。
あなたはどうするつもりだったのですか?
「簡単よ・・・犯人を逃がさず・・・あたしの身を護ればよかったのよ。」
「どうやって?」
「・・・。」
「警視?」
手を預けたままで、涼子は寝息を立てていた。薬が効いてきたのかもしれない。
「ひどいな。」
泉田は苦笑いしながら、片手で頬にかかった髪を後ろに流してやった。
少し苦しそうな寝息を安心させるように、そっと額に手を置いてやる。
ふと、その手にくっきりと爪あとが残っているのに気がついた。
それは絶対に犯人を逮捕するのだという涼子の情熱の欠片。
「・・・次はあなたの命令に従います。もっといい方法があったのだと、信じていますから。」
――よろしい。それでこそあたしの忠臣よ。――
明日になれば、あの元気な声を聞かせてくれるだろうか。
「もう、離れませんよ。」
暗闇の中で小さくつぶやく。
正解は彼女の胸の中だけに。
美しき疫病神の謎がまた増えただけ。
どうすればよかったのか、わかるまで側にいなさい。
これが命令無視の甘美な末路。
(END)
*・・・正解?もっとうまく盾になれってことかなあ?(笑)
これが正しいとお涼はわかっていたのではないかと言う考え方もありますね、爪を立てたのはただの八つ当たり。
いずれにしても懲りない2人、原作の中でもこのまま元気でいてほしいです。