<夏の終わりに>


肌寒くて目が覚めた。

続く熱帯夜に耐えかねて、
寝る時は2時間で切れるように、起きる時は30分前に入るようにタイマーセットした冷房を、
枕もとのリモコンを探して手探りで切る。

重い瞼を開くと、カーテンの向こうは明るい。
枕もとの時計は、目覚ましの10分前を指していた。
泉田はゆっくりと起き上がった。


歯磨きをしながら、鉢植えに水をやろうとベランダの扉を開けると、
昨日までのもわっとした暑い空気とは明らかに違う、朝の涼気。

鉢植えはほとんどが観葉植物だが、ひと鉢だけ祖母のところからもらった朝顔があり、
小さな花がひとつ、水滴をつけて朝の光に向って咲いている。

ちょろちょろと眠そうにその鉢の下から這い出してきたのは、小さなヤモリ。
その姿に、この前、霞ヶ関の地下にいた巨大山椒魚のことを思い出す。
・・・やれやれ。

もうそろそろ夏も終わりだ。





その日、女王陛下は、珍しく朝から執務室にこもりっぱなしだった。

泉田も、先日の事件の報告書を作り、指示を受けていたいくつかの調べ物を捌く。
応援に出ている阿部を除いて、他のスタッフたちも皆黙々と自分の仕事をこなしていて、
参事官室には、静かな時間が流れていた。

その静けさを破ってドアが開いたのは、昼近くになってからだ。

「ちょっと刑事部長と出てくるわ。」

「いってらっしゃいませ。」
「お疲れ様です。」

皆が立ち上がって敬礼で見送る中を、涼子は小さく手を振りながら出て行った。
貝塚がその後ろ姿を見て、つぶやく。

「・・・なんだか警視、お元気がないですねえ。」
「・・・そうだな。」

日ごろ貧乏神呼ばわりしている刑事部長のところへ行くのだ。
普段を考えれば、それなりの愚痴、いや、ひと暴れあってもいいくらいだ。

その違和感は、涼子が昼を過ぎて退社時間近くになっても戻らないことで、
ますますぬぐえないものになる。





「警視、遅いですね。」
「・・・そうだな。」

朝と同じ言葉しか返しようのない泉田も、腕時計を見た。
何の話だろうか。

考え始めた時、ふいに泉田のデスクの内線電話が鳴った。

「参事官室、泉田です。」
「泉田クン、あたし。今から部長と隣に行くから。」

受話器の向こうから聞こえる涼子の声からは、何の感情も読み取れない。

「そうですか。お疲れ様です。お気をつけて。」
「先に帰っていていいわよ、みんなにもそう言ってね。」

泉田の返事を待たずに、内線はぶちっと切れた。
こちらを見つめる貝塚に、泉田は肩をすくめてみせた。

「部長と一緒に隣に・・・多分隣の合同庁舎だな、に行くから、先に帰っていい、とさ。帰るか。」
「合同庁舎って・・・まさか、まさか秋の人事絡みの話じゃないですよねっ!?」

いきなり貝塚につかみかかられんばかりに詰め寄られて、泉田はたじたじとなる。

「落ち着けよ、秋の人事絡みってどういうことだ?」

貝塚は座る泉田の膝に飛び乗りかねない勢いで顔を近づけ、続ける。

「昨日からキャリアの皆様方があちこちで会合をされているという噂です。
そろそろ秋の人事異動の下打ち合わせではないかと。」

「なるほどな。」

春と秋にはある程度の規模の異動がある。
そう、涼子がこの部署に来たのも、ちょうど秋風の頃だった。

「どうしましょう、泉田警部補!警視がどこかに行っちゃったら、どうすればいいんですか!?」
「どうすればって・・・いいじゃないか、お涼の手下だって他の部署の奴らから苛められなくなるぞ。」

とうとう貝塚は泉田のネクタイをぐっと掴んだ。

「いやですぅ、絶対にいやですぅ・・・。」
「お、おいおい、泣くなよ、決まったわけじゃないだろう?」

泉田は、貝塚の頭をぽんぽんと撫でてやった。

「異動・・・か、あるかもしれんなあ。お涼はあっさり『お別れね』なんて、またパリあたりに戻りそうだなあ。」

丸岡が読んでいた新聞から目を離し、天井を仰いでため息をつく。

「さよならだけが人生だ・・・ってね。」





「部長、私はこちらで失礼致しますわ。」

建物から出たところで、涼子は刑事部長から少し下がって歩みを止めた。

「ああ。本当に君は・・・!失礼する。」

部長は仏頂面でつぶやくと、振り向かずにそのまま歩いていった

涼子は一礼し、そのあとシャドウボクシングでその後姿に2発パンチを入れると、
くるりと反対方向へ向き直った。

見上げる空は灰色。
一雨来るかもしれない。





「さよならだけが人生だ・・・か。」

丸岡が言った言葉は、井伏鱒二による漢詩の名訳。

――コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ――

一期一会を思い、酒を酌み交わす歌だ。

「・・・一緒にかなり飲んだよなあ。」

泉田は、誰もいなくなった参事官室で、今にも雨が降り出しそうな窓の外を眺めていた。

そういえばいつか、こんな風に涼子も外を眺めていた。
凛々しく腕を組み、雷光に照らされて。

共に過ごした時間が次々に甦ってくる。


「まだ異動だと決まったわけでもないさ。」

感傷的になっている自分に言い聞かせるようにつぶやいて、泉田は参事官室を後にした。
帰ろうとエレベーターホールに立つと、隣のエレベーターから刑事部長が降りてくる。

「お疲れ様です。」

顔を知らぬわけではなく(向こうが覚えているかどうかはともかく!)、職責上の、
少なくとも規定上は涼子より上席の上司に、泉田は敬礼し一礼した。

「キ、キミ、キミは・・・。」

刑事部長はぎっと泉田をにらみつけると、小声で言い放った。

「あ、あの悪魔をなんとかしろ!」
「・・・は?」
「くそっ。」

苛苛したその様子に、泉田は問いかけずにはいられなかった。

「あの、薬師寺は・・・。」
「知らん、さっき途中で別れた。不愉快だ。」

それだけ言うと刑事部長は、自身の部下たちが待つ部屋へとずんずんと歩いて、
やがて廊下の向こうに見えなくなった。

泉田は首をかしげ、来たエレベーターに乗る。
貝塚が言うとおり、人事異動絡みがあったのだとしたら、あの部長の反応はどういうことだ?

彼女はどういう決断をしたのだろうか。





涼子はすっかり夜の帳が下りた公園のベンチに座って、
摩天楼の明かりを見上げた。

ぽつり、ぽつりと雨が落ちてくる。
紅い唇に笑みが浮かぶ。


――こんなおもしろいところ、誰が離れるもんですか。――


部長が提示してきた異動先は、各国警察への派遣、政府がらみの機関への出向、アメリカやヨーロッパの
軍事関連機関への研修や査察まで・・・おそらく総監やもっと上の意向も動いているのだろう、
涼子をなんとか追い出そうと相手も必死だ。
しかし。

ふいに涼子の膝の上のバックの中で携帯が鳴る。


『もしもし、警視。泉田です。今、どちらにいらっしゃいますか?』


遠慮がちな、でも心配していることが伝わってくる温かな声。


『お送りしなくてよろしいですか?雨が降ってきましたが。』


離れてしまえば、また一人に戻るだけ。別に怖くもない。
お別れなんて、いつだって、誰にだって来るのよ。
でも、でもね。


『あの・・・警視?聞こえていますか?』


まだ離れない。離れてなんかやらない。


『あの・・・警視?』


困惑した声、戸惑いの表情まで見えてきそうな。


「ふふふ。アハハハハ。」

涼子は思い切り笑った。
大粒の雨が落ちてくる。

「警視、からかわないで下さい。外なんですね、どこですか?迎えに行きます。」
「うん、来て来て〜!すぐ来て〜!日比谷公園のね〜・・・。」

雨の中楽しそうに答える涼子。携帯を持ったまま泉田が走る。

「あ、ここよ〜!泉田クン!」

駆けつけてきた泉田に、ずぶぬれの涼子が手を振る。

「警視!」

飛びついてくる涼子を抱きとめて、泉田が傘を開こうとするが、
涼子がその手を捕まえて離さない。

「あの、警視、雨がひどくなってきています、このままだと本当にずぶぬれに・・・。」
「もうなってるもん、傘なんていらない。」

そう、あなたがいればそれでいい。
たくさんの季節を一緒に走って、次々に押し寄せる嵐を超えて。

さよならなんて、死ぬまで言わせてやらないんだから。

涼子はぎゅっと泉田にしがみついた。
土砂降りの雨が、2人を包み込んだ。





極上のワインを飲むだけ飲んで寝てしまった涼子のベッドに腰掛けて、
泉田は窓の外に輝く摩天楼を見つめた。

彼女はもうしばらくこの街に、今の仕事に留まる事にしたのだろう。

だが自分だって、いつまでこの場所にいられるかは分からない。
人生には分かれ道がいくつもあるから。

・・・だから今このひとときを大切に、一緒に。

泉田は眠る涼子の額に一つ、キスを落とした。





「・・・暑いっ!」

耳元で最高級に不機嫌な声がして、泉田ははっと目を覚ました。
いつの間にかベッドにもたれてうとうとしてしまったらしい。
窓の外はもう明るくなり始めている。

「なんで冷房ついてないのっ!?」

冷房?冷房?そうだ、昨夜。
泉田は記憶をたどって、涼子に申告した。

「長時間雨に打たれていらっしゃったので、風邪をひくといけないと思って、私が切りました。」

「ありえない!熱中症で死んじゃうわよ!」

涼子はローブ姿のままベッドから降りると、ガラリと窓を開ける。
入り込んでくる、生暖かな空気。
眼下に見下ろす公園からは、かすかにセミの声が聞こえる。

熱帯夜、復活。

まだまだ、夏は終わらない。



(END)




*文中引用の漢詩は、『勘酒(于 武陵)』です。原文はこんな感じ。
勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵)
満酌不須辞 (満酌辞するをもちいず)
花發多風雨 (花ひらけば風雨多く)
人生足別離 (人生別離足る)
色々な訳がありますので、興味のある方は楽しんでくださいませ。

コミックの10巻も出て、毎週動くお涼さまが見られて、私は本当に幸せです♪