<温もりの距離〜Stay strong>


「泉田さん、先に帰りますね。」
「ああ、お疲れさま。」

「大変ですね、それ特別講習のレポートですかぁ?」
「ああ、でももうすぐ終わるよ、大丈夫。」

「じゃあお先に失礼しますぅ。」

貝塚は一礼すると、泉田を残して執務室から出て行った。
今日はもう誰も戻ってこない予定だ。

街は夕暮れ。
ついこの間まで、ここから公園や皇居の桜が見えたのにと、
窓を見ながら、ふと泉田は思う。

――いつの間にか季節は移ってしまった。何も出来ないままに…――

泉田は束の間目を閉じ、そして頭を軽く振ると、
またレポート用紙に向かった。



東北で起こった大震災。
一時はパニックとなった首都部も、徐々に日常を取り戻している。

電力節減に伴う計画停電や駅を含めた建物内の暗さ、
特定物資の不足、そして風評も混じる原発の不透明感は、
不安の影を濃く落としてはいるが、それでも時間は流れていく。

ただ泉田は、その中で何も出来ない自分が歯がゆい。

貝塚は真っ先に通訳応援に志願した。
阿部も被害規模がまだ定かでない頃、早々に応援に出向いた。

2人とも戻ってきた時には疲労困憊だったが、
「被災された方々から、元気と勇気をもらった」
と、涙ぐみながら笑った。

丸岡はさすがに警視庁(ここ)を離れるわけにいかなかったが、
その豊富な経験を活かし、庁内に設けられた対策本部に事あるごとに駆り出され、
現地のサポートを行っている。

警備部の由紀子と岸本は、現地派遣が多い部署とあって、何度も行ったり来たりだ。

では泉田は、というと。

日常業務に加えて、週2回業務後には、国際犯罪への対応の為、
語学強化に力を入れ始めた上部の声で作られた、英語の特別講義に通う日々。

――日本がこんなに大変な時に、何が語学学習だ!!――
必要だとわかっていても、そう思うと投げやりな気持ちになる。
こんなことをしている場合ではない、そんな見えない声に追い立てられる。

泉田は上司に何度か、応援に行かせてほしいとかけあってみた。
だが答えは明確に「No」。

…わかっている。
応援人材だって「人」なのだ。現地に入れば食料が要る、寝泊りする場所が要る。
むやみやたらに送ればいいというものではない。
そしてまた、泉田の上司がいかに人間離れした働きをするとは言え、
この首都を守る為に残る人数も、当然必要なのだ。

ゆえに泉田はひたすら忙殺されるべく、仕事を増やした。
自分の存在価値を確かめるかのように。

その結果、特別講義に提出するはずのレポートは、提出が三日後にも関わらず未完。
だが少しずつ形にはなりつつある。
自由議題のそれに、泉田が付けたタイトルは「災害時における警察機能について」。
もちろん全文英語だ。

震災後、国内メディアよりも海外メディアの方が、
今回の災害対応における問題点や予防措置の欠落点、再発防止措置について、
客観的に詳しく述べている部分があることに気が付いた。
それらにも全て目を通した上で、考えたつもりだった。

――こんなことをしたって、単なる机上の、過ぎ去ったことを論じるものにすぎない。
でも俺に今出来る数少ないことだから、考えずにはいられない。――

夕闇が迫ってくる。
泉田は、節電の為、部屋の電気を消し、手元のスタンドの明かりをつけた。
そしてそこから2時間、脇目も振らず、
辞書と参考文献を片手にレポートを書き上げたのだった。




午後9時。涼子は真っ暗な参事官室に戻った。
この季節、日が落ちるとまだ肌寒い。

会議で使った書類を置いてさっさと帰ろうと自室の机の上を見ると、
何やら分厚いレポートが置いてある。

『薬師寺警視

お疲れさまでした。
今日はお戻りにならないかもしれないと思いましたが、
受講させて頂いている特別講義のレポートを、提出致します。
正式提出は上司の査閲後となっております。
三日後が提出期限ですので、ご繁忙のところ恐縮ですが、
ご一読、ご指導をよろしくお願いいたします。
本来、直接お願いすべきことにつき、ご無礼お許し下さい。
明日朝、改めてご説明いたします。

泉田』


…どっしり重い上に、ものものしい表題だ。
涼子はぱらりとページをめくった。

そこにはたどたどしいながらも、多方面からの考察があり、
基調論調として、懸命に公僕としての警察の在り方を説き、
国民の役に立ちたいという願いが込められている。

涼子はすぐに帰るはずだったことも忘れ、机に腰掛け、
ペン立てから赤ペンを取り出すと、気が付いた綴りの間違いや、
単語の用い方を訂正していった。

そして終章。これまでの章のまとめと結論。
そしてなぜこの論文を書くに至ったかが後書き記載され、
以下の言葉で締められている。

『I've never felt as proud of Japan as I did today.
I want to stay strong with all the peple
who keep their heads high for the future.』



「…バッカじゃないの、暑苦しいったらないわ!」
涼子は手に持った赤ペンとレポートを机の上に叩き付けた。

論旨はまだまだだ。構成も文章も、
海外の一流論文を読みこなす涼子から見れば、稚拙の部類かもしれない。

なのになぜ、瞳が潤むのだろう。

『私は、これほどまでに日本を誇りに思ったことは今日までありませんでした。
未来に向かおうとする全ての人々のために、がんばりたいと思います』

「本当にバカね…ロマンティックすぎるでしょう、レポートには。」

額に手を当てて目を閉じる。
涼子だってあの日以来、何度官邸に押しかけて、
対策本部を乗っ取ってやりたいと思ったか。
胸倉をつかんでやりたいと思ったか。

でもその度に被災した人たちの言葉に、映像に気づいた。
今はとにかく自分に出来る、最善のことをするのだと。

自分にしか出来ない支援が、一人ひとりにあるはずだ。
そう思って今日まで出来る限りのことをしてきたつもりだった。
それでも、涼子をしても無力感はぬぐいきれていない。

でもこの男は、それを乗り越えて、声を大にして言うのだ。
がんばりたい、強くありたい、と。


「Stay strong…か。」


いい言葉だ。
静かで、それでいて一過性に終わらない真に力強い言葉。

涼子は、いつの間にか肌寒さを感じなくなっていることに気付いた。
どうやらこの男の思いには、本当に温度があるらしい。

この温もりを、届けさせてやりたい。
反射的に涼子はそう思った。

思いあっている心の面積分は、どこにいても届くかもしれないが、
やはり物理的な距離が近い分、時間的な長さの分、
より温もりは伝わっていくだろう。

「首都の治安はあたしが守らなきゃ仕方ないか、やっぱり。」

涼子は机に座ったまま足を上げ、くるりと窓の方を向き直った。
ブラインド越しにうっすらと星が見える。

この夏、国を挙げて節電をすれば、もっと夜空は美しく見えるかもしれない。
そんなことを考え、涼子は久しぶりに微笑んだ。




翌朝、真っ赤と言えるほどに直されたレポートと、
次回の被災地派遣の推薦文が、泉田の机の上に置かれていた。

「貝塚くん、今日は警視は?」
「午後からご出勤の予定と聞いておりますぅ。」

泉田は席に座り、改めてレポートを見ながら思った。
この実践を是と受け止めてくれる人がいることのありがたさを。

そして大切な人を守りたいという思いと、
たとえその大切な人から離れてでも、自身の使命を全うし、
今この時に一人でもたくさんの人の役に立ちたいと願う思いに、
何の矛盾もない不思議を。

これから忙しくなる。
昼休みを使って、レポートを仕上げておこう。
泉田は心の靄が晴れたような思いで、パソコンを立ち上げた。



温もりは伝わる。
思いは伝わる。必ず伝わる。
だから願おう、祈ろう。

Stay strong, stay very strong.
・・・Always I'll be with you.

―END―



このたびの地震で被災された方にお見舞いを申し上げるとともに、
一日も早い安穏が訪れることを心からお祈りいたします。

阪神大震災の時、たくさんの地域の警察の方々に来て頂きました。
いったいこの10kmほどの間に、いくつの県外ナンバーのパトカーが
あるのだろうかと思ったほどのすごい数でした。心強かったです。
寮の近く、信号が壊れた交差点で、懸命に交通整理をしてくださっている巡査さんに、
同僚と「ありがとうございます!」と言ったら、満面の笑顔で応えて下さいました。
ジャケットに『長野県警』と書いてありました。御恩は一生忘れません。

あの時、被災地ど真ん中の知人宅へ向かう私のリュックに、
いっぱいのりんごを詰めて下さった見知らぬボランティアの方々。
やっと途中まで動いたJRの駅のそば、
店壊れて屋台で営業してんのに無理はあかんって、何回も遠慮したのに、
タイ焼きを後輩の分と2個買うと、「寒い中お疲れさんや」と必ず1個おまけしようとしてくれたおばちゃん。
神戸市役所の地下に貼られた世界中の子供たちからの励ましのメッセージ。

思いも祈りも、そして温もりも、全部届きました、感謝いっぱいで頂きました。
だから、今度は私が届ける番だと思っています。

このお話の副題は、文中にも出てくる、『Stay strong』です。
「がんばれ」とか「しっかりしろ」という意味で使われますが、
他に呼びかけるのではなくて、自分自身に「強くあれ」と呼びかけるのに、
とてもいい言葉だと思います。
これからも復興まで長い長いスパンで、出来ることを続けていきます。

なかなか新作がかけなくて申し訳ない中、いつもサイトに来て下さる方々、
本当にありがとうございます。
今回も最後まで読んでくださってありがとうございました。