<桜咲く日に>


不安定だった気温で、ずいぶん足止めされた桜もようやく満開。
都内に数ある部屋の中では珍しく低層階にあるこの窓には、いちめん薄桃の花が広がっている。

涼子は、しばし手を止めてその景色を見つめていた。

お気に入りの部屋だったのに、耐震構造上の補強が必要だと当面の引っ越しが必要となったのだ。
都心から少し離れていることが不便と言えば、不便だが、
春は桜、夏は緑、秋は紅葉、そして冬は凍てつく高い空を映す眺めが楽しめなくなるのは淋しい。

もちろん分譲側の責任と(させて)、移転費用から当面の家賃まで面倒を見てくれるとのことだったが、
離れがたい気持ちが先に立ち、どうしても憂鬱になる。


それに何より、ここは・・・。
いや、よそう。


涼子は、メイド2人と忙しく立ち働いている泉田に声をかけた。

「泉田クン、そこはもう2人に任せておけばあとは業者がやってくれるから。
自分のものの整理と、そこのDVD、好きなのあったら持って帰っていいから片付けて。」

「はいっ。」

笑顔で返事が返って来たことに、涼子はまた淋しさを感じた。

彼は何とも思っていないらしい。


−−あんなこと言ったくせに。

もう忘れているのかもしれない。



『うわぁ、きれいだ。いつものマンションの眺めもいいですが、
ここは本当の家みたいですね。何となく落ち着きます。』

軽井沢の別荘ほどの床面積もない低層マンションのメゾネットタイプ。
何か薬草(毒草?)でも栽培する時に役に立つかと思ったから、桜の木がある専用庭付きの1階―2階を選んだだけ。

こんな狭い家にずっと本当に住むのはごめんだと思ったが、あの時の泉田の嬉しそうな顔に、
涼子は不覚にも、一生の不覚にも、一瞬想像してしまったのだ。

この家で、2人で暮らすことを。


気に入っていた割には、やはり都心からの距離が災いして結局なかなか来られなかったが、
新しい部屋をまた見つけるつもりはなく、ここの荷物は整理して今ある高輪のマンションへ
一時避難させるつもりだ。
それは業者とマリとリューに任せておけばいい。

涼子は当面必要なものだけをダンボールに詰め終わると、窓辺に立った。
春の光に花が揺れている。





「警視。」

呼ぶ声にちらりと振り返ると、泉田がダンボールを抱えて後ろに立っていた。

「本当にきれいですね、桜。」
「そうね。・・・準備出来た?」

涼子は何とか淋しさを表に出さず、また窓の外に目を戻して問いかけた。


「 この箱は、この部屋に帰ってくるまで使わない私物です。ほら、一緒に買いに行った庭用のスコップとかバケツとか。
そういうもの他にもありますよね、一緒に置いておいて頂けませんか?」


あまりにものんびりした普段通りの泉田の口調。
涼子は思わず振り向いた。

−−今、何かさらりと…それはどういうこと?!

そんな涼子の様子に気付かないまま、泉田は離れたところにあるダンボールを指差す。


「で、あっちにあるのが、警視のお荷物と一緒に運んで頂きたいものです。
しばらくここには戻れないので、どこか一番良く行かれるところに一緒に置いておいて頂けると助かります。」

予備のワイシャツやネクタイと、さっき詰めていいと言われた好きなDVDですよ、
と泉田は付け加える。


「ここはいつ頃完成予定ですか?」
「秋頃と聞いているけど?」
「そうですか。早く戻って来られるといいですね。」


じゃあ、ダンボールの上にわかるように書いておきますね、と言って、泉田はくるりと涼子に背中を向け、
また作業に戻る。





涼子は泉田が太い黒マジックで、
『ここに戻るまで開けないもの 泉田』とダンボールに書くのをじっと見つめていた。


戻る時も、一人ではないかもしれない。
まだわからないけれど、こんなダンボール1個、担保に取っただけでもずいぶんと違うものだ。

涼子は窓を大きく開いた。
柔らかな風とともに、かすかな緑と花の匂いが流れ込む。


「ね、次帰ってきたら、庭をもうちょっと充実させる。」
「ベルサイユの屋上に置いてある花、少し持ってくればいいんじゃないですか?」
「うん、そうしよう。」


涼子は元気に頷くと、身も軽く泉田の背中に飛びついた。
ダンボールの上にへばった泉田が、ぐえっとも何ともつかない声を出す。


桜咲く。
また少し2人の距離が近づいたことに気づく日。

並んだダンボールの上を、春風がわたっていった。

(END)



*お涼さまお引っ越しの図でした。
泉田クンは絶対各マンションに私物を置いていると思うんですよね。
「置いておけば?」という言葉に、バタバタの中面倒だからついつい置いちゃって、
もはやそれが当たり前に…なってたらいいな、と思いました。
さらにそこでしか使わない庭いじりの道具とか、お遊びの為にそろえたようものがあるといいな。

都内少なくとも数か所はあるような記述になっているお涼さまの拠点。
一つくらいこんな部屋があってもいいですよね。
多分泉田クンの「家」に一番近いイメージは、マンションよりこういうところなのだと思います。