<セピア色の風景>

金曜日夜の銀座。
ふいに隣の涼子が立ち止まり、腕を預けられている泉田は、自動的にくいっと後ろに引っ張られる。

「なんですか?警視。」

急な停止に小さな非難を込めながら涼子を見た泉田の視線は、涼子の視線を追って、ショーウィンドウに飾られた絵に行き着いた。

それはセピア色の風景画だった。

浅い小川が揺れる柳の間をさやさやと流れる。
岸から小道を隔てて古い家が立ち並んでいて、よく見ると軒には朝顔やへちまが巻きつき、風鈴が揺れている。

郷愁を誘われる絵ではあるが、なんのことはない、都心から離れればよく見られる日本の夏の風景。

事実泉田はその絵を見ながら、田舎の祖母の家にそっくりだと思っていたところに。


「・・・行きたいなあ。」


耳に入ってきたのは、隣の美女の深いため息とつぶやきだった。


「だって、こんなところ行ったことないもん。朝顔だって地面から生えてるのなんて見たことがないわ。」

広大な庭や温室があるらしい屋敷で育った涼子だ、庭師は朝顔やへちまなど植えてくれないのかもしれない。
朝顔はたぶん、朝顔市で何千円も出して買うものなのだ。

「涼しそうだなあ、いいなあ。ね、どこに行けば見られると思う?京都?山口?鹿児島?」

「いえ、そんな遠くに行かなくても、関東近郊でも都心を離れれば普通に見られると思いますが・・・。」

「近郊って具体的にどこ?」

ショーウィンドウの前で、大きな瞳で真剣にまじまじと見つめらて、泉田は困惑した。

「具体的にといわれましても・・・たとえばうちの祖母の家のそばにも同じような景色がありますから。」

「泉田クンのおばあ様のおうち?!」

失言だったと泉田が気づいたのは、涼子の瞳が一層の輝きを放ち、
その可憐な花の唇が、『連れて行って』と甘く恐ろしいおねだりを始めてからで…時すでに遅かった。



次の日、泉田は涼子の車のハンドルを握り、早朝の高速をひた走っていた。

出発時間が早くなったのは、涼子が早く行かないと朝顔がしぼんでしまうと急かしたからだ。


「おじゃましてご迷惑じゃないの?その・・・おばあさまもそれなりのご高齢でしょう?」
「・・・お気づかい痛み入ります。」


昨夜泉田を脅しすかし、その場で祖母に了解を取る電話をかけさせた張本人の言葉とは思えないが、
いつになくしおらしい口調からすると、本当に少し反省しているのかもしれない。
泉田は苦笑しながら答えた。

「大丈夫です。確かに弱っては来ましたけれど、まだまだ元気ですよ。
正直、私もなかなか顔を出せていないので、いいきっかけだったのかもしれません。」

「そう?」

「ただし。」

これだけは釘をさしておかなければならない。泉田はきっぱりと言った。

「昨夜も申し上げたとおり、クーラーはありますが、古くて効きません。暑いですよ。
軽井沢の警視の別荘のような快適な空間も、世話をしてくれる人もいません。
それにあなたが行きつけているような、ランチを出してくれるお店は全くありません。
賭けてもいいですが、昼は祖母手製の巻きずしと冷やしそうめんです。いいですね?」

「・・・わかっているわよ、いいの、あの風景が見られれば。」

涼子はぷっとすねてみせたあといつもの表情に戻って、少しずつ緑が多くなる車窓に眼を向けた。
やがて車は高速を降り、山道を抜け、目指す小さな町にたどりついた。





「おばあちゃん、ただいま。」

玄関の引き戸を開けた泉田の声に、奥から老夫人がちょこちょこと土間に現れた。
風がかすかにひんやりした畳表の匂いを運んでくる。

「おかえり。よお、来てくれたねえ。まあまあ、ようこそ。」

「お邪魔いたします。」

今日は白いワンピース姿の涼子が、泉田の祖母に微笑んで頭を下げた。

「職場でご一緒している薬師寺です。今日は急におじゃまいたしまして申し訳ありません。」


「え?警視?いや、おばあちゃん、違うんだ、この人は…。」

涼子の言葉を訂正しようとした泉田の足を、涼子のヒールがさりげなく踏みつけた。

「痛っ!何するんですか、警視!」

「ここでこの上司部下の関係を説明しなくてもいいでしょう!?嘘は言ってないわよ!」

小声で諭す涼子を、泉田は足の痛みに耐えて軽くにらみながら言った。

「そういうわけにはいきません。おばあちゃん、この人は俺の上司で東京の警視庁の警視さんだ。警察の偉い人なんだよ。挨拶を頼む。」
「まあまあ、そうでしたか。」

祖母は玄関先に座るときちんと手をついて微笑んだ。

「いつも準一郎がお世話になっております。ありがとうございます。」

深く頭を下げる祖母に恐縮しながらも、涼子は不思議に思った。

孫の上司が女性、しかも階級が相当に上。普通なら驚くかあわてるかのシーンだ。
なのに目の前のこの老夫人は、純粋に尊敬のまなざしで涼子を見上げている。

「そのお若さで御出世とは、さぞかし勇敢でいらっしゃるのでしょう。素晴らしい。どうぞ準一郎をよろしくお引き立てください。」

祖母はまた頭を下げた。涼子もあわててもう一度頭を下げた。

「いいえ。こちらこそ。」

「さ、もういいでしょう。警視、朝顔がしぼんでしまいますよ。おばあちゃん、ちょっとその辺り散歩してくるよ。昼には戻るから。」

昨夜頼んで準備してもらったまっさらな麦藁帽子を2つ手に持った泉田が、涼子を促した。

「はいはい。いってらっしゃい。」

「かぶりますか?警視。それとも日傘にしますか?」

涼子は泉田の手から麦藁帽子を受け取ると元気よくかぶり、にっこりと微笑んだ。

「よし、行こう!」





さやさやと流れる小川の岸辺には、近所の家のものであろう鉢がいくつか並べられていて、
朝顔やへちまが近くの柳に支えられた支柱に巻き付き、風船草やおしろい花も咲き乱れていた。


「ねえ、おばあさまにあたしのことを話したこと、ある?」

飛び跳ねるようにそれらの鉢をのぞきこんでまわっていた涼子が、ふいに振り向いて泉田にたずねた。

「ありませんよ。昨夜あなたの前で電話をかけた時に言った『もう一人、連れていく』だけ、それが初めてです。」
「その割には、あたしが上司だって言っても驚かれなかったわよね。」

「ああ、それは…あなたが警察官だからですよ。」
「え?」

涼子は風でふわりと舞い上がる麦藁帽子を押さえながら、泉田を見上げた。

「祖母にとって警察官は、男性であれ女性であれ、年齢が上であれ下であれ、ただ尊敬する人なんです。」
「・・・どういうこと?」

泉田は涼子をうながして川べりを歩きながら言った。

「祖母はこの近くの出身ですが、祖母の父はいわゆる村の巡査でした。祖母が嫁ぐ前、大水が山から出た時、避難活動中に殉職したそうです。」
「・・・。」

「祖母はそのことをとても誇りに思っています。だから私が警視庁に入った時にも、警部補になった時にも、一番喜んでくれたのは祖母でした。」
「そうだったの…。」

「警察なんて何度も辞めてやると思いましたが、祖母の期待を裏切るのは心苦しいので。」

冗談めかして苦笑いを浮かべる泉田は、まるで子供が少し照れながら先生に褒められたことを報告するような目をしている。
涼子は立ち止まり、その表情に思わず吹き出した。

「まぁったくほんとに、泉田クンってば。」

「え?」

「・・・麦藁帽子似合うわよ、やっぱり動物園とか牧場とか、素のままだとそっち系よね・・・でもっ。」

時の流れも血の絆も、こうして泉田をちゃんと涼子の元に引き寄せてくれたのだ。
涼子は笑いながら泉田の頬を突いた。

「とにかく、神はあたしの世界征服に協力的だってことよ!」

涼子は泉田にくるりと背を向けると、川岸を駈け出した。

「あ、警視!」
「あそこのひまわりまで競争!」

駈ける涼子を泉田が追う。いつもと変わらないシチュエーション。
2人は同時に背の高いひまわりにたどりつく。

涼子は自分の身長以上の花を背伸びしてのぞきこむと、その花びらに唇を寄せた。

「きれいね〜。これぞ夏の花って感じ。」
「は、はい。」

泉田はぜいぜいと息を切らし膝に手を置いたまま、サンダルでも全く速度が落ちないスプリンターを見上げた。
涼子はひまわりと並んであでやかに微笑み返した。





祖母の家に戻ると、昼食は予想通り巻きずしと冷やしそうめんだったが、涼子は見事にたいらげて祖母を喜ばせた。

それから祖母を交えて、しばらく他愛のない泉田の子供のころの話に花を咲かせた後、
風鈴が鳴り出したのをきっかけにお暇することになった。

涼子が名残を惜しむように祖母の家の庭の朝顔を眺めている間に、泉田は祖母に言った。

「冷房をちゃんとかけて、出来るだけ日のある間は外に出ないこと。
昔と違って暑さは年々厳しくなっているから、熱中症予防には気をつかってくれよ。」

「はいはい。今日は忙しいところ、来てくれて本当にありがとうね。
未来の花嫁さんまで真っ先に連れてきてくれて、ばあちゃんは本当にうれしいよ。」

「へ?」


泉田は動きを止めた。
未来の花嫁?…おばあちゃん、ぼけたんだろうか。


「いや、おばあちゃん、あれは上司で…。」

「わかるよ、あんたが一番守りたいと思ってる人じゃろ?」

祖母は穏やかに微笑むと、泉田の手を取ってぽんぽんと叩いて包み込んだ。

「体に気をつけてがんばりなさい。あんたを信じてくれているあの人を、
裏切ったり、悲しませたりせんようにしっかりがんばりなさい。」

「おばあちゃん・・・。」

泉田は、祖母の手に自分の手を重ねた。
未来の花嫁ではないが(断じてないが!)、祖母の言っていることは素直に心にしみた。

「ありがとう、おばあちゃん。また来るから、元気でな。」






帰り道、ぐっすりと眠り込んでしまった涼子を助手席に高速をひた走りながら、
泉田は祖母の言葉を何度も心の中で繰り返していた。

『あんたを信じてくれているあの人を、裏切ったり、悲しませたりせんようにしっかりがんばりなさい。』


信じてくれている・・・か。


背中を任されることの重みに気付かないわけじゃない。
ただそれが、人型大量破壊兵器の背中だけに、並の重みじゃないだけだ。

だけど、守りたい。
だから明日もまたきっと、必死にこの人を追いかけて走るのだろう。





朝顔を見詰めていた涼子、川辺で植木鉢を一つ一つのぞき込んでいた涼子、
そしてひまわりにキスしていた涼子…今日、あふれるような光の中で生まれた愛しい人のいる風景。

この心の中の風景は、いつか忙しい日常に忘れられ、色褪せても、
きっと夏になればまた眩しい日差しを浴びて、鮮やかによみがえるに違いない。

いつまでも。


泉田はしっかりと前を見据えて、夕暮れの都会へアクセルを踏み込んだ。



(END)



*お涼さまご機嫌の夏の一日でした。おばあちゃんの父親の話は原作にはもちろんありません。ご了承を。
でも泉田クンは一族のどこかに警察官や教師がいそうな使命感の強さですよね。
お涼さまはたとえリタイヤしてもこういう場所に住んではくれないかもしれませんが、
たまには2人でのんびりとまたここに遊びにきてほしいです。その時には本当に花嫁さんになっているといいのにな、お涼さま(^^)。