<空(そら)>
携帯が鳴ったのは、涼子が自宅のバルコニーで3時のティータイムを楽しみながら、
3冊目の経済誌を手に取った時だった。
ディスプレイに表示された文字を見て、目を丸くする。
久々に解放してやったはずの休暇だったのに。
ボタンを押したところで、すぐに出たら嬉しいと思っていることがばればれだと気づいたが、もう遅い。
だからせめても少し不機嫌な声を出した。
「何?」
「警視、お休みのところ申し訳ありません。じ・・・車を・・・。」
「もしもし?どこでしゃべってるの?すごいノイズよ。」
「急いで準備してくだ…。…。…。」
無音。
「もしもしっ!?」
ぶちっ。ツーツー。ツーツー。
…どういうこと?
失礼なヤツ。女性に電話をかけるのに、電波が悪いところを選ぶなんて。
しかも最近電波の悪いところを探す方が難しいっていうのに。
涼子は心の中でひとわたりの悪態をつくと、経済誌をめくり始めた。
だが、集中力は戻らない。
メールを打ってみようか?そんな考えが頭をかすめたが、涼子は首を振った。
さっきの電話のご用事なあに?って。ばかばかしい。
そんな混乱を打ち砕くように、もう一度着信音が響く。
涼子はなりふりかまわず、ワンコールを待たず携帯を取り上げた。、
「何よ!?どこにいるの!?さっさと用件を言いなさい!
上司に電話を入れる時に、途中で切れるようなところでかけるんじゃないわよ!」
かけてきた部下はきっと必死なのに、出た方が先にこれだけしゃべるという上司ならではの理不尽。
しかし電話の向こうの泉田は、今日はおかまいなしに、その涼子の声に声をかぶせてくる。
「下にいますから、早く降りて来てください。急い・・・・。」
ぶちっ。ツーツー。ツーツー。
・・・なんだって言うの?
涼子はバルコニーの手すりにもたれてマンションの入口を見下ろしたが、泉田の姿はない。
今、こっちに向かっているところなのかもしれない。
「降りて来てくださいって…。」
事件か?しかしそれなら公式の呼び出しがあるはずだ。
プライベートの番号にかけてきての急ぐ用事とは一体何なのか。
涼子は立ち上がると部屋に入ってクロゼットを開いた。
さて、何を着るべきか。
女性には準備というものがあるのだ。仕事とデートでは着る服もメイクも違う。
そんなことをあの朴念仁に言っても、絶対にわかるまいが。
以前無理やり「よくお似合いです」の言葉を引っ張り出したワンピースを着て、
白のトレンチコートを一枚手に持つ。
薄いメイクをして、ルージュだけは細心の注意でひいて、愛用のバックをセット。
15分。
ドアを飛び出そうとした時に、手に握った携帯がまた鳴った。
出ている暇がない。来たエレベータに飛び乗る。
到着したエレベータから飛び降り、マンションの入口を出る。
次の瞬間、ぐいっと腕を掴まれた。
「ちょっと!」
「すみません、急いでいるんです。車、お借りします。乗って。」
合鍵で駐車場から出したのだろう、入口に横づけされた涼子の車の助手席に押し込められる。
泉田は素早く運転席に飛びこむと、急発進で公道に滑り出した。
「・・・。」
涼子は足を組んで、運転席の部下の顔を眺めた。
それは、切迫感を押し殺した無表情な横顔。
いつもの泉田らしからぬ強引な車線変更を繰り返し、車は高速のゲートをくぐる。
「ちっ。」
泉田の小さな舌打ちが響く。
平日とは言え、こんな時間に高速がすいているわけがない。
「…どこへ行くの?」
「…。」
「行先くらい教えてくれてもいいんじゃないの?」
「…。」
涼子はだんだんペースが乱れるのを感じていた。
自分の問いに返事をしないことなど、普段絶対にないのに。
「休暇に上司を呼び出しておいて、理由も説明しないなら降りるわよ。」
「…。」
それでも返事はない。
いっそ本当に降りてやろうかと涼子がちらりと考えた時に、ひとつ出口を過ぎて、
車はふわりと流れ始めた。
ほっ。一つ緊張の解けた安堵の空気が伝わってくる。
「・・・何度も途中で電話が切れてしまって申し訳ありませんでした。」
泉田がぽつりと、しかし心底申し訳なさそうな声で言う。
「駐車場からだったの?」
「はい。」
涼子はやれやれと肩をすくめると、それ以上は問いかけなかった。
互いに無言のままで車は高速を走る。
トンネルを抜け、都内を出る。
そして車は橋に入り、海の上に踊り出た。
「うわああ。」
涼子が歓声を上げた。
大きな夕日と光る波、照らし出される街並みはどこか幻想的にきらめいて。
「よかった…間に合った。」
泉田がつぶやく。
やっぱり。
この為に急いでいたのだと、涼子も途中から気づいていた。
「初冬のこんな冷えた日は、きれいなのよね。」
「はい。」
ほんの2.3分のサンセット・ドライビング。
涼子は輝く瞳で空を、海を見つめる。
その横顔を安堵の表情で眺めながら、
泉田は橋を渡り終え、埠頭へと滑りこむと静かに車を停めた。
「申し訳ありません、急がせてしまいました。」
キーを抜いて涼子に差し出すと、泉田は運転席から頭を下げた。
「思い出したのがとても遅かった、不手際でした。間に合ってよかった。」
「・・・どうして初めから夕日を見せてやるって言わないの?」
涼子は唇をとがらせた。
「それは…万が一間に合わなかった時に、警視ががっかりされるだろうと思ったからです。
代わりに何かお見せ出来るようなものも思いつかなかったので。」
「・・・あのさぁ。」
涼子は受け取ったキーで泉田の顎をくいっと持ち上げると、顔を寄せた。
息がかかるほど近く、しかしその息吹は決して甘くはなく、いらだちでまるで邪悪な氷のよう。
「何の理由もなく車に乗れ、って言う方がずっと迷惑だし、不安だとは思わなかったの?」
「…も、申し訳ありません。」
「まったく。」
どこかの統計で見たことがある。
男性は目的重視、女性は過程重視の傾向があるって。
そういうこと?それともこいつが鈍感なだけ?
「そういう時には、何も見られなくてもいいのよ。」
「え?」
「間に合わなくてもいいじゃない。ドライブを楽しめばそれでいいんだから。」
「まあ…そうですが。」
泉田は少し考え、そして真摯に問いかけた。
「何の目的がなくても、ドライブにお誘いしたらついてきてくださいましたか?」
涼子は泉田の顎を離すと、怒りのあまりぷにぷにとそのキーを泉田の頬に差し込んだ。。
「…目的すら知らされなくても、結果的にちゃんとついてきたじゃない!!
飛びおりもしなかったのよ!?誉めてほしいもんだわ!それもこれも…!」
…おっと、危ない。相手がキミだからとは死んでも言わないわよ。
涼子はぷいっと顔をそむけた。
泉田は、夕日に赤くそまる涼子の横顔を見つめ、苦笑いとともに溜息をついた。
「間違ってしまったみたいですね。すみません。」
泉田は、涼子のぎゅっとにぎりしめた手を両手で包みこみ、ほどくと、中のキーを取り上げた。
「帰りは、星空がきれいだと思います。これはこの天気なら急がなくても十分に楽しめると思います。」
だから。
泉田は涼子に微笑みかけた。
「しばらくここで空をみましょうか。」
ボンネットに腰かけた涼子は、並んで立っている泉田と空を見上げていた。
右腕にもたれかかりながらそっと盗み見上げれば、
刻々と色を変える光が、泉田の瞳に映っている。
どうしようもなく鈍感で、野暮だけれど、
今だって、寒いと言えば、いや、寒いから何とかしろと言えば、きっと抱きしめてくれるはず。
そんな不器用で、でも心底あたしを大切にしてくれる人。
…言ってみようかしら?
そんな楽しい想像をしながら、心が少しずつ満たされていく。
「寒いですか?」
ふいに心を読んだように、泉田がたずねる。
さあ、どう答えようか。
涼子は、泉田に満面の笑顔を向けた。
こうして今、2人で空を見上げていること、それだけで最高に幸せだと思える。
そんな冬の夕暮れ。
(END)
*遅くなりまして申し訳ありません。よく冷えた日の夕焼けって本当にきれいですね。
私はこの間高速を西へひた走りながら、一人で感動していました(涙)。それにしても…田中先生、
いつものことながら、そろそろ新刊がほしゅうございまする…。