泉田は、ホテルのエレベーターの中から、どんどん小さくなっていく地上を見下ろしていた。
宝石のようだと評される夜景。
…だとすれば、この輝きはやはりダイヤだ、と泉田は思う。
幾千、幾万のダイヤの煌めきが、暗い海と暗い空の間にぎっしりとちりばめられている。
エレベーターは小さな音を立ててゆっくりと26階に停止した。
<逃避行>
呼び鈴を鳴らすと、中から「come in」の声がかかった。
泉田はカードキーを差し込み、ドアを開いた。
世界にその名を誇るスイートルームの奥へ進むと、
開かれた重厚なドアの向こうに、マホガニーのどっしりとしたデスクが置かれている。
そのデスクの上を書類いっぱいにして、涼子は画面を見つめ、キーに指を滑らせていた。
「失礼いたします。泉田、入ります。」
泉田はちらりと腕時計を見た。まもなく真夜中になる。
今日は街で香港マフィアの息子に見初められ、追いかけっこをして店を一つ潰し、さらにディズニーランドへ行った後、
皆で貝塚の案内で遅い香港流の夕食を楽しんだ。
お開きにしましょうと涼子が元気よく笑ったのを潮に、それぞれホテルの部屋に戻っていったのだが、
泉田はなんとなく、涼子の様子がいつもと違ったような気がして今までスーツを脱がずに待っていた。
それに、どうしてもそろそろ確認しなければならないことがある。
いくら刑事部長がみんなまとめて休暇にしてくれたからと言っても(コンタンは見え見えだ!)、
丸岡がどんなに「ゆっくりしてきていいぞ」と言っても(そりゃ主のいない執務室は快適だろう)、
貝塚がはしゃぎ、泉田には申し訳なく思いつつなんとなく阿部も楽しんでいる様子でも、
物事にはけじめというものがあるのだ。
「明日のご予定を伺いにあがりました。そしてそろそろ帰国の日程を・・・。」
「未定。」
即答。
顔も上げてもらえなければ、指もとまらない。
泉田は頭をかきながら、涼子が座る机の上を見た。
書類にはJACESのマークが入っており、ほとんどは日本語のものだ。
「船に乗ってもらった社員たちの出張報告書よ。明日FEDEXで送るわ。」
泉田の心を読んだように、涼子が疑問に答える。
JACESは今回、かなりの数の社員を動員していた。
いわばその『現場監督』としての役割があった涼子は、彼らの査定も含めての報告業務がある。
涼子がいつもと違ったのは、まだこの仕事が残っていたからだったのだろう。
夕食の時にはそれなりに飲んでもいたはずなのに、もうそんな酔いの片鱗も見せない知性にあふれた横顔。
大きな窓に二方を囲まれたエクゼクティブ・プライベート・オフィスで、涼子の姿はまるで夜景の中に浮かんでいるようだ。
こうしている時の涼子はなぜか遠い。
触れさせてくれない何かが、透明なガラスの壁になって泉田を拒む。
もともと手の届く存在ではない、と改めて思う。
なのに一番近くにいなければならない理不尽と不思議。
「…はい、終わり。」
そうつぶやくと、涼子はぱたりと机にうつぶせになった。
泉田は、隣の椅子にかけてあったカーディガンを持って歩み寄ると、
チャイナドレスの肩にふわりとかけながら言った。
「お疲れ様でした。早く休んで下さい。」
その問いには答えず、涼子は気だるそうにゆっくりと立ち上がった。
ゆらりと揺れるその背中を、泉田はいつものように片手で支える。
やっと触れられた、そんな安堵感も覚えながら。
リリリリリ。
ふいに卓上の電話が鳴った。
「誰だろ?こんな時間に。 Hello?」
フロントからのようだ。
受話器の向こうからの流暢な英語が、近くにいる泉田にも聞こえてくる。
「・・・バラが1000本以上届いている?」
「聞こえた?…だ、そうよ。とりあえず部屋に入れてもらおうかな。」
泉田の頭の中でプチリと何かが音を立てて切れた。
あいつだ…こんな気障なことをするのは、昼間のマフィアの息子に違いない。
まだ邪魔をする気か。
泉田は、涼子から受話器を取ると、思わず日本語でまくしたてた。
「こんな時間に非常識にもほどがある。突き返して下さい!」
涼子が泉田の横から、受話器に向かって大声で英語で話す。
「こんな深夜から受け取れないとツレが申しておりますの。
それ、ホテルに差し上げますからどうぞメインロビーをバラでいっぱいにして差し上げて下さい。
ゲストの皆さまも喜ばれると思います。」
フロントからの、喜んでそうさせてもらうという返答を聞いて、泉田は受話器をがちゃりと置いた。
「大人げないわね。」
「あいつが神経を逆なでするからです。」
憤然とした泉田の顔を見ながら、涼子はその横をすり抜けて笑いながら言った。
「でも1000本ってすごいわよね。ちょっと見に行こうよ…きゃっ!」
「行かなくていい!」
泉田が思い切り涼子の手を引っ張った。
涼子はバランスが崩れて、泉田の胸に抱きとめられる。
「…もう…まったく手のかかる…少しじっとしていて下さい。」
涼子は茫然と泉田を見上げた。
怒りで紅潮した頬、苛立っている瞳は、拗ねたように窓の外を見ている。
――これって…。
涼子は頬を染めて微笑むとぎゅっと目を閉じ、そして泉田の背中にしっかりと手をまわした。
カーディガンにつけたふくろうのブローチが、泉田のワイシャツのボタンにあたってカチリと音を立てる。
「わかった、じっとしてる。」
「…そうして下さい。」
仕方ないですね、というため息混じりの言葉とともに、髪に優しいキスが落ちてきた。
涼子は顔を上げて、泉田に微笑みかけた。
「ね、船旅がしたい。」
「はあ?!」
泉田は思わず体を起こした。
「け、警視はまだ…。」
懲りていないんですか?という二の句が継げない。
あれだけ船の中で銀色のヘビ(名前はもう忘れたい…)と戦って、キャビンを走り回ったのに。
涼子は、あっけにとられた泉田の鼻を指でつつきながら、楽しそうに笑った。
「まだあの子が追ってくるかもしれないから、帰りも船でキミと愛の逃避行ってのがいいな。」
「何を言っているんですか。勘弁して下さい。」
「今日の昼カレシ?って聞かれて、否定しなかったんでしょ?なのにその態度なワケ?」
「あれはですねぇ…。」
返答に窮して、泉田は困惑して眉を寄せた。
一瞬つかんだつながった心がまた離れていきそうな気がして、
涼子は、泉田から右手を離すと、白く長い指の先で、まるでダイヤモンドを弾くように窓の方へと手を伸ばした。
「欲しいならこの輝き、全部泉田クンにあげる!だから一緒に行こう?」
世界をつかむ手があるからこそ言える言葉。
しかし強気な言葉と裏腹のその切ない表情に、泉田は涼子を抱きしめた。
「…そんなものもらわなくても、いつもそばにいるじゃありませんか。」
涼子は泉田の温かな胸の中で幸せいっぱいに目を閉じた。
翌朝、涼子が泉田にした訂正。
「『逃避行』という言葉は、逃げるという言葉が入っていて縁起が悪いわ。『名誉ある前進の船旅』にしましょう。」
愛の「逃避行」、もとい、愛の「名誉ある前進の船旅」…なんのことかわからんだろう。
泉田は突っ込みたかったが、何も言わなかった。
そして黙々と、「クレオパトラの葬送」事件日本凱旋となる、その船旅の為の手配をし始めたのだった。
(END)
*2009年投票にご協力ありがとうございました!第一位「クレオパトラの葬送」の後日談SSです。
短編集SPの後日談でもあるので、小説だけの方にはわかりにくかったかもしれません。
ゆえに少し説明っぽく長くなって申し訳ありません。
モデルのホテルは、もちろん歴史的老舗、ペニンシュラ香港のペニンシュラ・スィート!です。
ハーバービューの夜景を泉田クンと二人占めしてほしいというところは譲れません(笑)。