名前を呼んでくれる低く甘やかな声を思い出す。
抱きしめてくれる優しく暖かな腕を思い出す。
この白く輝く街の景色とともに・・・。






<雪の記憶>



「室町警視?」

岸本の声に、由紀子ははっと我に返った。

「ごめんなさい。配備は終わった?」
「はい、そりゃあもう完璧に。…あれ?どうされたんですか?顔色が悪いみたいですよ。」

覗き込む岸本に、由紀子はきりりと微笑んでみせた。

「寒くてぼんやりしてしまったわ。たるんでいるわね。見回るわ。」
「はいっ、お伴します。あ、足元に気をつけてくださいね、すべりますよ。」

制服警官たちの敬礼の列が並ぶ建物の周りは、昨夜から降り続いた雪が、
まだ残っており、その上を吹き抜ける風はまさに凍てつく寒さを運ぶ。

「う、うわわわ〜っ。」
「岸本警部補!」

とっさに支えた由紀子の手も間に合わず、岸本は見事にすべって尻もちをついた。

「ケガはない?」
「えへへ、やっちゃいました。大丈夫です。」

差し出された由紀子の手を取って立ち上がった岸本は、またバランスを崩しかける。
由紀子は苦笑しながら支えてやった。

そう、これが今なのだ。
警備部警視としての今。

背筋をしっかりと伸ばして、由紀子は再び歩き始めた。




「で、どちらへ?」
「ん?この先でね、警備部が厳重警戒やっているからおちょくりに行くの。」

なんだと?
泉田は、からめとられた腕を引き抜こうとしたが、当然のことながらびくともしない。

「何をあわてているのよ?!」
「おちょくりにって…不謹慎ではないですか!」

「激励よ。しかもあたしは今日午後休みだもん。この間の休日出勤の振替休暇。」
「私は勤務中です!」

泉田の叫びなど気にも留めず、涼子は人通りの多い道を一本逸れてぐんぐん歩いて行く。
都内と言えど高級住宅地街、まるで森の中にいるような庭があちこちにある。


とうとう行きどまり、丘の上の大邸宅前に着いてしまった、
外務省関連か何かの建物だろうか。門からでは全貌が見えないほどの大きな洋館だ。
どうやら警備部の厳重警戒の対象物のようで、ずらりと巡査たちが並んでいる。

「お疲れさま。」

涼子は泉田の腕を離さぬまま、その巡査たちに手ほがらかにを振る。
さながら閲兵式の女王様のように。

…居たたまれない。
泉田は、いつものことながら大きなため息をついた。
そんな態度の部下に涼子は形の良い唇を尖らせる。

「…買い物のお供には慣れたのに、こっちには慣れないのね。」
「慣れる慣れないの問題では…。」


バンッ。


突然、爆発音が響いた。


ちなみに。
発砲音や爆発音が響いた時、振り向いたりきょろきょろするのは日本人だけだそうだ。、
平和ボケしているのかもしれない。
ほとんどの国の人は、迅速に地面に伏せるという教育を受けるか、あるいは本能でそうしている。

泉田は日本人ながらも、もちろん訓練されているので、周囲を確認しつつもとっさに地面に伏せた。

しかし、地球人かどうかも疑わしい泉田の麗しの上司は、発砲音と爆発音が聞こえたら、
素早く音源を特定し、嬉々として駆けだしていくという世界でも極めて珍しい反応を見せる。

「警視!」

ゆえに部下もすぐに飛び起きて、後を追わねばならない。
その声に警備部の巡査たちも、飛び起きて状況を確認する。

「お涼!」

門の中から飛び出してきた室町由紀子が、涼子の手を掴む。

「何か見たの!?」


…この女性(ひと)が素晴らしいと、泉田が思うのはこういう時だ。
キャリアは縄張り意識が強い。本来であれば、涼子は無視されるか、叩き出されてもしかたない。

しかし由紀子は、涼子が走っているのを見るなり、何か目撃したのだとすぐ気づき、呼びかける。
簡単そうに見えてなかなかお目にかかれない部門横断だ。日本警察の鑑。


それに引き換え、

「しっかり見たわよ!あんたと部下が地べたに寝そべっている間にね。あたしの手柄よ、邪魔すんな!」

由紀子の手を振り払うと、見事な啖呵を切って、
腰までほどの高さの『KEEP OUT(立ち入り禁止)』のテープを軽々と飛び越える泉田の上司は、
まるきり悪役か、好意的に見てもいじめっ子だ。


「投げ込んだのは白のワゴン!爆発音と同時に東へ走ったわよ、そっちは検問で止めて!!」

涼子が走りざまに叫ぶ。
由紀子がそれを聞き、大声で指示を飛ばす。

泉田は涼子の後をひたすらに追いかけて走った。

涼子は庭の反対側の出口を出たところで立ち止まった。
5平米くらいの大きさで焼け焦げた草むら芝生に、発火装置が転がっている。

泉田は手袋をはめて駆け寄ろうとしたが、涼子がそれを制した。

「まだ爆発するかもよ。こいつはどうやら不発だったみたいね。」

涼子は振り返って建物との距離を目測する。

「本当はふっ飛ばしたいんでしょうけど、まあ威嚇でもいいのかな。
いずれにせよ、某国に味方するなという意志表示の目的は達してたんだから。」

涼子はとある国の名前をつぶやいた。
北の大国と微妙な情勢にある国だ。ここはその国の大使館だったようだ。

「処理班!」

背中から由紀子の凛とした声が響く。

「さがって下さい。」

爆発物処理班が、かけつけ涼子と泉田を制する。
由紀子の持つ無線から、岸本の声が流れてくる。

「や、やりました!し、白のワゴン、検問で停めました、停めましたよ〜!!」
「まったく、あたしの手柄だって言っているのに、厚かましい奴め!」

涼子が検問の方向へ走りだした。
泉田はその後を追おうとしたが、ふと立ち止まった。
本来であれば一緒に追うべき由紀子が、その背中を見送っている。

「行かれないのですか?」
「大丈夫、急がなくても相当の人数を割いているわ。それにお涼が行ったのならなおのこと、逃がしはしないでしょう?」

「そうですが・・・。」

静かに歩き始めた由紀子に従って、泉田も歩きはじめた。

厚かった雲が切れ、光が差し込む。
残った雪に、道がきらきらと輝き始める。

「やあ、これはきれいですね。」

思わずこぼれた泉田の声に、由紀子は何も言わずに眩しげに目を細めた。

まるで宝石の欠片が乱反射しているような街の景色。


由紀子は足を速めた。
泉田はいつもらしからぬその態度に少し戸惑いを覚え、不謹慎な発言だったかと反省しつつ、
そのまま後ろに従う。

「やはりテロね。」

背中を向けたまま由紀子がつぶやく。

「威嚇だ、と上司は申していましたが、その線であればテロなのでしょうね。」

テロならば公安に引き渡さねばならない。庁内間の縄張りが絡む難しいところだ。
それを考えているのだろうと思っていた泉田の耳に返ってきたのは、意外な言葉だった。

「テロは…許さない。無差別に何も知らない人を傷つけるなんて、決して許さない。
必ず法の元に裁くわ。」

由紀子が立ち止まる。
泉田は静かに由紀子の次の言葉を待った。


「なぜこんなことが出来るのか、私には理解できない。」
「…同感です。」


由紀子が振り返った。
蒼白の凛とした表情の中で、瞳だけが熱く揺れている。


「理解できない、だから我々は法と人を守り、その為の組織を守る側にいるのではないでしょうか。
室町警視のお考えは正しいと思います。」

「…ありがとう、泉田警部補。」


由紀子はどこか苦しそうな微笑みを浮かべると、表情を引き締めて前へ向き直った。
泉田は、その背中に思わず声をかけた。


「室町警視、無理をなさらないで下さい、お顔の色が悪いように思います。」


由紀子はもう一度振り向くと、口ごもり、そしてつぶやいた。

「雪が…あまり好きではないの。」
「雪が?」

泉田は一歩距離を詰めて、由紀子の顔をのぞきこんだ。
2人を白い反射光が包む。
ぱさりと落ちる枝の雪が、白く風に舞う。

由紀子は顔を上げ、心配そうな泉田の目を強く見返すと、表情を引き締めた。

「いえ、雪を見ると思いだすことがあって、それで。ごめんなさい、私的なことよ。」

行きましょう、と歩き始めた由紀子を追い、泉田は隣に並んだ。

「やっかいな記憶は、つきあえるように変えてしまうに限りますよ。」
「変える?」

由紀子は、隣に並んだ泉田を歩きながら見上げた。

「どうやら私ほど年を取ると、記憶はいいように書き変わっていくようです。
どんなつらいことも、悲しいことも、出会うべくして出会ったことなのだと、思えるようにもなる。
どうせ私的な記憶は自分一人のものですからね。どう書き変えたっていいでしょう?」

泉田が柔らかく微笑む。その向こうの木々がきらきらと輝いている。

「あの時と同じ。」
「え?」


こうして、残った雪が煌く朝に、隣に立って微笑みかけてくれる人がいた。
つらい別れをしてしまったけれど…でも。


「いいえ、そうね、私的な記憶は書き変えても構わないけれど、証言に必要な記憶は正確でなければ困るわ。」

「ああ、そうですね。それは困りますね。」

私なんて検察側の証人として立つと、弁護士につつかれて大変ですと頭をかく泉田に、
由紀子はくすりと笑った。頬にほんのり赤味がさす。
泉田はほっと息をついた。

「室町警視には元気でいて頂かねば、うちの上司の相手がおりません。」
「泉田警部補、上司に対して不敬よ、口を慎みなさい。それに私だって好きで相手をしているわけではないのよ。」
「失礼いたしました。」


由紀子は顔をあげて前を向いた。その瞳にもう迷いはない。

向こうで岸本が手を振っている、そのお尻を涼子が蹴飛ばす。

―現在(今日)に出会うための、過去(あの日)だったと認めてしまおう。
選んだ道は選ぶべくして選んだのだと、信じ続けよう。

やがてにぎやかな声と犯人逮捕の喧騒が、由紀子を包み込んだ。





夕暮れ時、都心に向かう電車の中で、泉田は並んで立ったまま窓の外を見ている上司に問いかけた。

「警視は、雪はお好きですか?」

涼子はきょとんとした目で泉田を見つめ返した。

「唐突ね。」
「いえ、もうすっかり溶けてしまったなと思って。」

昼からの日差しで、都心の雪はもうほとんど残っていないに違いない。


「好きも嫌いもないわよ、自然現象でしょ?そう言えば昔、おキヌに雪だるまにされかけたことがあったわ。」
「絹子さんにですか?」
「そうよ、あいつ雪だるまの仕組みを知らなくてさ、中に人が入っているって信じ込んでいて…ああ、思い出すだけで忌々しい。」


あっけにとられて見つめる泉田のネクタイを、涼子は軽く弄びながら問い返した。

「ところでさあ、なんかお由紀、迫力ないわよね。せっかく取ってやった手柄だったのに、やる気のないヤツ。」


正確には「取ってやった手柄」は、涼子が犯人を車から引きずり出し、抵抗するところをヒールで嫌というほど
蹴り倒したあたりから既に「後始末」に代わったが、由紀子は嫌な顔一つせず引き取った。
だが、そのあとすぐに、公安部が駆けつけ、上司からの指示で、由紀子はそのまま公安部に犯人を引き渡した。


「色々と御配慮されたのでは?」
「何がゴハイリョよ、また公安にひっかきまわされて終わるわよ。それこそ雪だるまにしてやろうかと思ったけど、
お由紀の雪だるまっていうのも、かわいくなさそうじゃない?だからおとなしく帰ってきたのよ。あたし、偉い?」

「はいはい。」


軽く頭をなでてやりながら、泉田はじゃれつく涼子を軽く片手で電車の揺れから支える。

そして窓の外の景色を見ながら、由紀子もどこかで笑っていてくれるといいと思った。
いつもぴんとはりつめている糸がきれぬように、何かで笑い、楽になっていてほしい…

そんなことをとりとめもなく考えていると、いきなり頬を思い切りつねられた。

「い、いたいれふ…。」
「なんで呼んでも返事しないかな、コイツは!」
「しゅ、しゅみばしぇん。」



電車は走る、止まることのない時の中を。
ひとりひとりのかけがえのない記憶を乗せて。

まだ見ぬ明日へ。


(END)



*少しシリアス?しめっぽくなったら、ほっぺたをつねられている泉田クンを想像して元気になって頂ければ幸いです(笑)。
以前垣野内先生が、「お由紀さんは、カット頭ワンアクションある」と表現されていらっしゃったのですが、私も原作を読んで、
全く同じ印象を持ちました。「普段の表情の下に素顔がある」という、垣野内先生の表現、素晴らしいです。マンガからもそれがよくわかります。
つらい恋を経て職務に邁進しているのか、生来の正義感がそうさせるのかわかりませんが、私には、彼女には過去がたくさんあるように思います。
そして大人でいて、大人になりきれず葛藤しているところは、いつも涼子より大変で、応援したくなります。
でもこのサイト的に、泉田クンはあげられないのでごめんなさい。せめて相談相手として使ってやって下さいな。

さて、出ましたね〜コミック最新刊。裏表紙に絶叫された方々、まったく私も同感ですよ。書店の平積み、全部裏向けて置きたいくらいでした。
マガジンZの最終刊はなんとコスプレ!!泉田クンが最後に選んだ衣装に、私もびっくりです。
幸せそうなお涼サマとものすごく不幸そうな泉田クンが楽しいですね。

最新刊の影響か、たくさんの方にお越し頂いていたのに、繁忙と痛みに勝てず更新が遅くなって申し訳ありませんでした。
またよろしければぜひ遊びに来て下さい。