ふうう・・・ぶくぶくぶく。
千尋は大きく息を吐き出しながら、口をお湯につけた。
包み込まれる温かさに、体がほぐれていくようだ。






<朝の光の中で>


――やっぱりこの時代からこのあたりには温泉が多かったんだね。――

偵察でサザキと一緒にこの熊野の森を飛んだ時に、
うっすらと煙があがっていたところが何箇所かあった。
その中で一番天の鳥船に近い場所を、千尋はしっかりと記憶した。
そして今朝早起きをして船を抜けだし、半時間ほどで探し当てたのだ。

少し山に入った小川のほとり、小さな岩に囲まれた場所。
千尋が入るのにちょうどいい大きさの温泉。

一応、弓はすぐ手の届くところに置いた。
小さな刀は、湯船代わりの岩場に挟み込み、立ててある。


やっと星が消えようとする時刻。
ここに来るまでも、東の空がうっすらと明るく、足元を照らしてくれた。
朝なら大型動物も敵も少ないだろう。
我ながらいい時間を選んだ、と千尋はひとり微笑む。

ここには石鹸はないけれど、千尋は夕霧が以前くれた花と木の実で作った磨き粉を愛用している。
それを布につけて湯の中でこすると、驚くほど肌がすべすべする。
ほんのり油のにおいがするところをみると、ツバキか何かの植物オイルなのかもしれない。

連戦・転戦の疲れが抜けていく。
千尋はもう一度丁寧に体をこすって洗い流し、素早くあたりを見回すと立ち上がった。

肌寒さに身をすくめながら体を乾いた布でぬぐい、衣をまとう間に思い出していたのは、
初めて忍人に会った朝だった。

――今だからこそ、ああいう人だってわかるけど…。――

どこから見ていたのだろう。どこまで見ていたのだろう。
まったく。

傷ついた乙女心をしまいこみ、靴紐を結びながら溜息をひとつ。
最後に髪をまとめて、小刀を岩から抜き懐に収めて弓を持つと、千尋は温泉を後に歩き始めた。

そして・・・数歩もいかないうちに、朝もやの木立の中に細身の黒髪の武人の後姿を見とめた。

「お、忍人さん!!」



「・・・ずいぶん長い湯浴みだな。」
「な、なぜこんなところに!?」

忍人はゆっくりと振り返り、千尋を見下ろす。

「なぜ、ではないだろう。一軍の将が誰にも言わず早朝に陣を抜け出すなどありえない!」

静かだが厳しい口調に、千尋は首をすくめる。

「今この瞬間に常世の刺客に君が襲われたら、自陣は総崩れだ。
その責任を君はいつになったら自覚するんだ。」

「・・・ごめんなさい。」
「もういい、行くぞ、訓練が始まる。」

先に立って歩き出した忍人の後を千尋が追う。

朝もやに霞むその背中は、いつもすべての言葉を拒否しているよう。
どうしても手が届かない。
心がつながったと思ったら、また離れていく。
切なさで胸がきりりと痛んだ。



「あ。」

木の根に躓いて上げた千尋の小さな声に、忍人は振り返った。
そして初めて千尋との距離が結構空いていたことに気づく。

「大丈夫か?」
「ごめんなさい。大丈夫です。早く戻らなきゃ。」

千尋がぱたぱたと忍人に追いついた。
忍人がその右手をひょいと左手でつかむ。

「将とは言え女人だ、今は軍事行動中でもない。手を引かないのは配慮が足りないな、悪かった。」
「え、いえ。あの、大丈夫です。一人で歩けますよ。いつももっとすごい道を歩いているじゃないですか。」

「君の場合はどこを歩いていても危ないことに変わりはないが。」
「・・・はい、ごめんなさい。」

手をひいてもらうと、とても楽に歩ける。千尋は忍人と並んで歩き始めた。
湯浴みしたばかりの肌はまだ温かい。
忍人はその手のぬくもりを柔らかに包みながら、ふと目を細めて千尋を見た。

「・・・いい香りがするな。」
「あ、これ夕霧がくれた体を洗う粉なんですよ。何の香りなのかわからなくて。」
「おそらく冬に咲く薄紅の花の香だ。独特の甘い香、毒を消す効果もあると聞いたことがある。」

「そうなんですか。肌にもすごく気持ちがいいんですよ。お湯もすごくあたたたくてのびのび出来たし。」
「どうやって見つけたんだ?あんな場所を。」

忍人の問いかけに頬を好調させて、得意げに千尋が笑う。

「サザキと偵察に出た時に、湯けむりの上がっているところが何箇所かあったんです。
たぶん源泉だと思うんですよね。川のすぐそばだったからちょっと熱くても川の水を入れちゃえば、
すぐいい温度になりました。」
「そうか、何にせよ疲れが取れたならよかった。」

穏やかな口調に、千尋は忍人を見上げた。
そう言えば最近忍人は顔色が良くない。忍人も疲れているのではないだろうか。

「あの・・・忍人さんは、どうして私が抜け出したことに気づいたんですか?」
「天の鳥船の廊下を歩いていたら、船を出ていく君の後姿が見えたから追っただけだ。」

「追ったって…そのさっきのお湯まで?!」
「千尋が水浴びが好きなことはよく知っているからな。途中でだいたいの行き先の察しはついたが。」



それはまた見たってこと!?
ぱくぱくと、千尋は言葉をつむごうとするが声にならない。
その姿を見て、忍人は眉間にしわを寄せた。

「見ていない。急かしもせずにじっと待っていただろう?」
「あ?え?・・・・。」

その表情に、千尋はじんわりと胸が熱くなった。
追いついて止めようと思ったら止められただろうに、見逃してくれた。
そしてお湯に入っている間守っていてくれたのだ。

あの時よりも少しだけ信頼してくれているのだろうか、近づけているのだろうか。
・・・いや、あの出会った時も、その冷徹に聞こえる口調の裏には愛情があったのかもしれない。
いつもこの人は、私のことをいたわる気持ちを、何より行動で伝えてくれる。

「ごめんなさい、忍人さん。本当にありがとう。」

花のように微笑む千尋に、忍人も眉間のしわを解いて微笑み返した。

「顔色も良くなった。まるでその香りを持つ花の色のような頬だ。
その元気な姿を兵たちに見せてやってくれ。」

「はいっ。今度忍人さんも一緒に温泉に行きましょう?きっと元気になります。
夜中にも起きずきっとぐっすり眠れるようになります。」

「・・・ああ。」

無邪気な千尋の誘いに、忍人はやれやれという表情で溜息をついて立ち止まると、
千尋を軽く抱き寄せ、髪に顔をうずめた。

「・・・少しじっとしていてくれないか。」
「お、忍人さん!?」

「いい香りだ。でも少しずつ薄くなっていく。・・・もう少し歩けば歩哨が立っている。
それまでにもう一度、この花の香りを思い切り吸い込ませてほしい。」

千尋は高鳴る胸の鼓動を抑えられないまま、しかしそれを悟らせないように、
ぎゅっと忍人の胸に顔をうずめた。

「い…いいですよ。私の湯浴みの間、朝露に濡れて立ってくれていたんですもの。思う存分。」
「そんな時間もないが。」



・・・永遠に時が止まればいいと思った。
愛しい人がこんなにもそばに居てくれる幸せ。
この瞬間を切りとって、自分自身をそこに永遠に閉じ込めてしまいたい。

そんな願いは叶えられようもない戦いのさなか。

朝の森の空気ときらきらした生まれたての日差しが2人を包んでいた。


(END)




*忍人がちょっと遠夜化していますか?(笑)いいですよね、たまにはこんな甘甘でも。
椿の中の「衣通姫(そとおりひめ)」名を持つものが花と香りのモデルですが、あくまでもモデル、
まったくのフィクションです。実物のものとは違うので、ご容赦をば。
熊野は本当に温泉の多い地です。ただし原泉は90度以上と温度が高いことが多いそうです。