<花の夜の憂鬱>


楸瑛は、外朝の回廊を歩いていた。
夜も更け、風は冷たいが、酔った頭には心地よい。

まだ遠くから笑い声と歌声が響いている。

羽林軍では、武官たちの結婚祝いが引きもきらずに行われている。

それもこれも昨年の末行われた武術試合の結果で、
第三関門で出会った宮女たちと武官が続々と入籍。

楸瑛もここのところまさに連日連夜、その酒席にひっぱりまわされていた。

新婦は日暮れ前、鍛錬が終わる頃軍まで来て、お披露目だけですぐ帰ってしまうので、
あとは延々男ばかりのむさい、しかし幸せ満載の宴席が、寒い軍の中庭で続く。

楸瑛も部下たちの幸せな顔を見ているのは、心底嬉しかった。
しかし。

「俺、彼女のこと一生大事にするっす。俺、剣もまだまだだけど、彼女ついてきてくれるって
言ってくれたっす。」

「官位も金もないですけど、彼女が笑ってくれればそれで幸せです。」

「思い切って告白してよかった。あの時は生きた心地がしませんでした。
ここだけの話、将軍と初めて手合わせして頂いた時より、ずっとずっと緊張していました。」

胸をしめつける言葉。
彼らの純粋な思いが伝わってくるだけに、素直になれない自分を見返って苛む痛み。

――結局、うらやましいってことか。――

早春に咲き始めた花々を見ながら、楸瑛は夜勤護衛の兵たちを軽くねぎらうと、
内朝に足を踏み入れた。



珠翠は、欄干にもたれて大きなため息をついた。

咲き始めた花々に囲まれた夜の内朝の庭は、
とてもよい香りがして、それがまた一層物思いを強くする。

だが今、珠翠を悩ませている目下の問題は、色恋沙汰ではなかった。

いやある意味、色恋沙汰なのだが、自分ごとではない。

宮女たちの退官が相次ぎ、後宮が極端な人手不足に陥っているのだ。

それもこれも、昨年末に行われたあの忌々しい武術仕合のせいだった。

精鋭武官との婚約が決まると、彼女たちは次々に珠翠にいとまごいにやってくる。
珠翠は手塩にかけて育てた彼女たちを、まるで本当の姉のように、
贈り物を整え、妻としての心がけを説き、幸せになれるよう祈り、抱きしめて送り出した。

それはそれで、寂しい中にも安堵や温かな気持ちがあふれているのだけれど。

しかし、いかな今後宮に寵妃が一人もいないとは言え、
このままでは主上の日常生活のお世話にまで支障が出てくる深刻な人手不足。

もともと誰でもがなれるという職ではないのだ。
むしろ極めて厳しい審査をくぐりぬける必要がある。

――しょうがない、あのくそじじ・・・げふん、霄太師と旺季さまと羽羽さまに頼んで、
なんとか門下省の貴族や、仙洞省からも紹介してもらおう。
現王はまだ独身だし、秀麗さま一筋とは知るよしもない玉の輿狙いの子は
結構応募してくれるかも。ああ、そうね、吏部にも頼んで・・・。――

珠翠の思考はふと、そこで止まった。
吏部尚書の怜悧な顔を思い浮かべると、どうしても似た面差し・・・邵可を思い浮かべてしまう。

似ていないという人も多いけれど、邵可の氷のような横顔を知っている珠翠は、
あんなに似た兄弟もないと思う。

後宮を去っていく彼女たちの華やかな笑顔を見ると、本当は少しだけ胸が痛んだ。
自分にはそんな日は決して来ないから。

もちろん覚悟していることだ、運命には抗えない。
今この一時、邵可と主上との静かな時間ですら、自分にとっては奇跡なのだから。

珠翠は庭に出て、月を仰いだ。
木々の間に浮かぶそれは、眩しく美しく輝いていた。

ひときわ白い花々が満開の木の下の長椅子に腰掛けて、しばし珠翠は空を見上げていた。



かさり。

微かな気配。

散った花を踏む人の足音に、珠翠は神経を研ぎ澄ませた。
・・・そして、がっくりと頭を垂れた。

ボウフラだ。
精鋭羽林軍の将軍であろうがなんであろうが、
珠翠にとっては払っても払っても湧いてくる虫にしか見えない、藍楸瑛の足音。

しかもこんなに夜遅く内朝に来ているということは、もしやまた誰か宮女を毒牙に!?
これ以上退職が増えては困る。もうどうしようもない。

いつもならばさっさと踵を返すところだが、ここはどうしても捉えて追い返さなければ。
そう思って珠翠は勢いよく立ち上がった。

ところに。

「きゃっ。」

思わぬ近さに、たきしめられたゆかしい香が薫る。

油断した。相手はさすがは武人だった。
珠翠が一瞬気を抜いた隙に、相当距離を詰められていたらしい。





「・・・つかまえた。」

しなやかな体を胸の中に入れて、髪をなでる。
どこか持ち主に似た、冷たい凛とした手触りの髪。

注意深くやわらかく抱きしめながら、しっかりとその体に腕を絡めて。

楸瑛は愛おしげに珠翠の髪に口づけた。

我ながら余裕のない動きだと気づき始めていた。
珠翠を抱きしめたのは初めてだ。

でももう止められなかった。

耳元でそっとささやく。

「会えるような気がした・・・会いたかった。」





瞬殺の甘い囁き。

さすがの珠翠も動きを止めた。

なんとか隙を狙おうとしたが、
これを抜けるとなると、相手にも多少の傷を負わせねばならない。

彼女のもどかしさなど知らない楸瑛は、髪に顔を埋めている。

こんなペースに巻き込まれてはろくなことがない。

珠翠は必死に、楸瑛の胸を手で押して顔を上げた。

「こんな時間に何をしていらっしゃるのですか!警護でないのであれば、叩き出しますよ。」

珠翠の声にもまったく動じない羽林将軍は、びくともせず珠翠を見つめて優雅に微笑む。

「春は六宮に到りて等しく、花深くして輦路(れんろ)迷う・・・と言ったところです。
あなたに会えるとは思わなかった。どうやら月の神は、私の味方らしい。」

「そうですね、確かに連日羽林軍は、風流な春の夜啼き鳥の声を聞くこともなく
大宴会ですから。酔っ払って迷子になる将軍が出ても、おかしくはないですわね。」



楸瑛は、冷たく言い放たれた言葉に思わず苦笑いを浮かべた。
本当だ。

「確かに。あなたの声をこうして間近にして、やっと春の温かさを感じられたほどですから。」

そう。いつもきりりとさく花のような筆頭女官。
その優しさと凛々しさに魅かれてここまで来たのだから。

楸瑛は瞳を閉じた。

そして花の香の中、誰にも言わなかった言葉が、自然に唇をついてこぼれた。

「あなたを・・・愛している。」





楸瑛の肩越しに月が輝く。

珠翠は、かすれるような声に目を見開いた。

楸瑛の言葉は、何度、何をささやかれても、いつもどこか嘘でどこか本気で。
だからこそ珠翠は、始めからとりあわなかった。

でも今、夜の気配を通じて伝わってくるその言葉は本気だ。

ただ、どこか嘘であることも事実で・・・それはおそらく相手ではないだろうか。

楸瑛は自分の中に、まだ他の誰かを見ている。
それがとても苦しい思いであることは、珠翠にも理解できた。

「私には・・・。」

思っている人がいる、そう言おうとした唇が、しごく乱暴にふさがれた。
楸瑛の唇で。

珠翠は、反射的に起こった衝動を渾身の思いで止めた。
こんなところで力も、そして風の狼としての技も使うわけにはいかない、絶対に。





唇を合わせた瞬間、何かが楸瑛の体を駆け抜けた。

殺気?

あまりにも短くて、そして柔らかな唇に夢中で正体に気づけなかったが。

こんなことでは武人としては失格だな。

楸瑛は苦い想いを胸に、少し体を離して珠翠をのぞき込んだ。
珠翠は呼吸を早めて、目を閉じている。

気のせいだったのか?

楸瑛は、今度は指でそっと珠翠の唇に触れた。

「・・・他の男の名前を呼ぶことなど許さない。
今宵だけでいい、愛していると言ってほしい。」

月を背にした楸瑛の瞳が、珠翠を射る。





珠翠は深く深くため息をついた。

これは重症だ。

自分も、この人も。

でも想いに嘘をついてはいけない。
例えそれがどんなにつらくても。
それは相手も、自分も、そして密に想う人をも汚してしまうことになるから。

「・・・その言葉は、あなたが本当に愛している人から、言ってもらいなさい。」

珠翠は、きっと楸瑛を見据え、その眼差しを受け止めた。

「今宵だけなどと言う言葉を、軽々しく使うものではありません。
そもそも、かりそめの恋にうつつを抜かしているから、
本当の愛まで乞わねばねばならない羽目になるんです。
反省しなさい!」

楸瑛はきょとんと珠翠を見つめた。
劉輝ではないが、口づけをして叱られたのは初めてだ。

しかも花の香りに満ちた、恋人たちのためにあるようなこんな夜に。

長い間の想い人は、迷っているこの思いもお見通しで、
そして出会った頃と何も変わらず、自分とは違う人への愛の強さに満ちていて。

楸瑛はなんだかおかしくなって、珠翠を抱いたままくっくっと喉で笑った。

「何がおかしいのですか!とにかく離しなさいっ!」

「嫌です。あなたが乞うなというのなら、もう乞いません。
今宵だけなどという女々しい話も止めましょう。」

楸瑛はもう一度ぐいっと珠翠の腰を引き寄せ、その頬に手をあてた。

「いつか必ず、あなたの心を縛る誰かから、あなたを奪ってみせます。
そしてその夜からは、永遠に私のそばにいてもらいますよ。」



その台詞よりも、珠翠は頬に当てられた手の冷たさに驚いた。

酔い覚めのせいかもしれないが、
このままでは、ボンクラとは言えやっと出来た主上の腹心に風邪をひかせてしまう。

それに寒いという理由だけで、
他の宮女の部屋に転がり込まれて被害が拡大するのはもっと困る。

珠翠は、頬にかかった手を取り邪険に両手で包み込むと、また楸瑛をきっとにらみ付けた。

「寝言は寝て言いなさい。それより、とにかくこのままでは風邪をひきます。
こちらへいらっしゃい。まったく手のかかるっ。」

唖然とする楸瑛の手を引いて、珠翠は自分の房へと歩き出した。



「眠るまで手を握っていてほしいなあ。」
「さっさと寝なさい。」

「温石が冷えてきちゃって。」
「・・・新しいのを投げますよ。頭に当てて即効眠らせてあげましょうか?」

「珠翠殿は眠らないのですか?」
「今夜は夜なべで仕事をします。」

「宮女の手が足りないと聞きましたが。」
「そうです、どこかのろくでなし軍のせいでこちらは大被害です。」

「私も手伝いましょうか?」
「子供には無理です。早く寝なさい。」

一晩中、そんなやりとりを続けた朝、楸瑛は珠翠の手の甲に口づけると、
寝不足の赤い目で、しかし元気に軍へと出勤していった。

朝餉の席で劉輝が、
「昨夜庭で楸瑛と珠翠を見たぞ。よい雰囲気だな。」
と言ったので、珠翠は勘違いだと怒鳴りだしたい気持ちをぐっとこらえ、
『邵可さま、邵可さま、邵可さま』と心を落ち着ける呪文を唱えた。

そして昼過ぎ。

「あの、珠翠さま。藍将軍からこれが。」

珠翠は、宮女の一人から手渡された大きな紙を見た。
そこには、各家門下筋の年頃の娘たちの名前がずらずらと並べられていた。

「これくらい候補が上がれば、宮女勧誘も楽ですわね、さすが藍将軍。」

珠翠はひきつった笑いを浮かべ、宮女を下がらせると、
その紙の下に重ねられた一枚の薄紙を取り出した。
あざやかな文字が躍る。

『御礼は今宵お聞かせ下さい』

びりびりびり。
珠翠は薄い李の花色のその紙を破くと、何の躊躇もなく春風に乗せた。

しかし礼を言わないわけにもいかない。
・・・ということは、今夜また眠れなくなるのか。
珠翠は大きなため息をついた。



楸瑛は心軽く、風を胸いっぱいに吸い込んだ。

一夜あの人の香りに包まれた。
それだけで素直になれる自分がいることが、なぜか嬉しかった。

楸瑛はまだ知らない。

心の中では過去などとうに乗り越えて、新しい想いがしっかりと根づいていること。
それがそれが、そう遠くない将来、
何もかもを解き放って、思いのままに走り始める楸瑛の強さになるであろうことを。

剣戟の鍛錬の音が、やがて楸瑛を武人の顔に戻していった。


(END)





*甘甘、ベタ甘に・・・ならなかったです。ごめんなさい。
将軍の瞬殺台詞は結構入れたつもりですが、なんせよどうにもできない片思い。
でも架空の人物をひっぱりだしてきてまで嘘の甘甘をやらせるよりは、
珠翠さんにご登場願って・・・と思いません?といういいわけでした。申し訳ありません。

こうやって書いてみると、将軍ってめっちゃ子供なんですよ。
でも愛しい人を抱いて眠るまで、がんばれ楸瑛!

なお一部引用の漢詩は以下です。春らしくて王宮ロマンって感じですよね。

春は六宮に到りて等しく 花深くして輦路迷う
昭陽歌舞の殿 許さず鳥の啼くを
(祁班孫)